線的透視法は、等しいものを様々に表象するのによい方法である。 すなわち、透視方的なシンメトリーにおいては、等価なものと類似(相似)なものと等しいものが混同される。 |
訳注
1-《透視法》については『グリーン・ボックス』,『ホワイ トボックス』の各所で言及されているが、後者にかなりまとまった量のメモがある(DDS122-127貢)。
『大ガラス』の下半分は、透視図法で描かれているわけだが、それもあり、2次元のオブジェは3次元に見せることになる。
2-《perspective linéire》をここでは仮に《線的透視法》と訳した。しかし厳密にはこの訳語は正しいとは言えない。正確には線(的)遠近法、あるいは透視図法と訳すべきだろう。《perspective》の訳語に遠近法と透視図法の二つが充てられるために往々にして混乱が生ずるが、本来は遠近法の方が広い概念で,これには線的なもの以外にも,大気・色彩などの遠近法がふくまれる。そのひとつとしての線(的)遠近法がそのままルネサンス時代のイタリアで確立を見た透視図法であり、それゆえ線(的)遠近法、あるいは透視図法の言葉をもって冒頭の字句の訳に充てるのが正しい態度かもしれない。ただ遠近法という訳語には原語のもっている「視」のイメージが欠けている」。また透視図法という言葉はむ亭とん.ど製図の世界でのみ用いられている。これらに加えて《perspective》は本来、ラテン語の「見透す」という意味の言葉に由来するものであることを考え、またすでに瀧口修造氏,束野芳明氏などによって使われてきている背景に助けられて、あえてデュシャンらしい表現として《線的透視法》という訳語を選んだ。ただしここでデュシャンがこの言葉を選んでいる態度はごく直裁的なものであり、まさに伝統的な線(的)遠近法,透視図法そのもの以上の意味はふくめていないように思われる。
3-さてその内容であるが、前段はとくに問題はないだろう。透視図法によれば、対象となる物体あるいは空間の画面に対する置きかた,あるいは画面との距離によって異なる写像が生れる。すなわちそこでは「等しいもの」が「様々な」形態に二次元的に「技象」されるのである。ただデュシャンのこの指摘が面白いのは、本来、ある物体または空間の視の構造を一義的に定めるものとされ,視覚世界の確定のための方法として存在して来た透視図法を、まさにそれをくつがえすもの、多様な「視」を可能ならしめる方法として、逆説的に、捉えている点である。ごくさりをげなく行なわれたこの表明が内包するところは意外に大きくデュシャンの思考の本質に迫っているのである。
透視図法が等しいものを様々に見せるということは、4次元の事象を3次元のガラスに投影することを指すと考えると、『大ガラス』の上半分のことうを言っているのかもしれない。
4-後段冒頭の透視法的なシンメトリーというのは、デュシャンの造語であり、このような概念が存在する訳ではない。デュシャン特有の、むしろ対立し相反する概念の結合のごときものと考えるべきかもしれない。透視図法においてはすでに述べたように,対象となる物体あるいは空間の画面からの位置関係、距離によってその写像が変化するのであるから、ある対象とまったくの相似形をなす対象物がちょうど同じ写像を画面上に結ぶような距離に置かれていたとすれば、ただ写像のみを見た場合には、はたしてその二つの対象物が合同のものなのか、それともたんに相似形をなすものが異なる距離のところに置かれているのかの区別をすることができない。「等価なものと類似(相似)なものと等しいものが混合される」のである。ここでデュシャンが数学用語と一般の用語とを混ぜて用いている理由はよく分らない。おそらくあまり厳密に場合を数学的に分類することを考えているのではなく、イメージに浮んだ内容を知っている文字で書き附けたのであろう。瀧口訳では「つまり等価なもの、似たもの(相似物)が……」と、最後の文字をはずして訳してある。内容的にはここでまた前段と同じく、事実の率直な記述によって透視図法に対する一般の通念を逆転させることがはかられているのである。
元の記事 Handmade Stereopticon Slide (1918-19)
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