2009年3月10日火曜日

帰結について


帰結について。
たとえば、表面=蝶番の上の一立方体の切断部は正方形であろう。つまり、この正方形は無限の表面を移動せず、静止し、しかしながら表面の正方形の切断部として自己回転しなければならないだろう。
どのような意味をこの最後に文に与えることができるだろうか。

線=蝶番が自己回転するとき、この線のそれぞれの点は線の回転の過程でこの蝶番の上に(この点そのものに対して)直角に交わる線を引いた。類推するならば、正方形=表面=蝶番のそれぞれの線は、正方形に対して直角に交わる平面をもたらさねばならないだろう。

私に言わせれば、正方形=表面=蝶番の線は、点が線の要素を意味したように表面の要素を意味する。
一 球体(たとえば、半径が一〇センチの球体)から始めるとき、この球体つまり三次元の連続は、四次元の連続のなかの切断部である。ここでいう四次元の連続と はこの球体の無限増殖された虚像によって、すなわちこの球体が占有しうる三次元の連続的位置によってそしてあらゆる大きさによって構成される
ものである。つまり

(一) 三次元の幾何学空間における何かしらの物体は、その三つの次元のそれぞれの測定値によって位
置 づけられる。この測定値つまりその形の算術的(あるいは慢性的な)定式はこれら三つの次元の、それぞれのそれぞれに対する恒常的関係によって、そ の<現実>を規定する。三次元のこの<現実>は、この物体より大きいか、等しいかあるいは小さいかの像の無限反復の機会である。 しかし、数が無限のこれらの像のそれぞれは、物体=型[典型としての物体?]の三つの次元の恒常的関係に従う。

(二) これら虚像の無数 の総体(ア・プリオリに無限の[?]総体)は、四次元のある連続と三次元の連続(幾何学的無限)もまた構成する。実際、幾何学的無限は、確かに一連続なの だが、その三つの次元は、公理としての点から発しているゆえに、それらの無限定性において考察されるのである。─逆に、虚像の連続は三次元の幾何学的量塊 から発するのであり、連続を構成する虚像は、三次元の物体の転置である。
物理空間に非常に慣れ親しんだわれわれの感覚は、たとえば五次元の連続の概念化を容認しがたい。五次元の連続とは、三次元の物体が、四次元におけるその概念化によってすでに与えた超虚像総体であるようなものだからである。

(三) 反論について。四次元なるものは、第一次元、第二次元、第三次元が持つような触覚対応物あるいは感覚対応物を持たないからには、四次元という語の意味は何か。[図23]
図23
第五次元について、仮設的に次のように想像できる。四次元の連続においてそれぞれの虚像を規定する恒常的比率は恒常的であることを止めるが、それでもそのために比率であることは止めない。説明すること。

 同様に、四次元の連続について。n次元の連続をn-1次元の連続の切断によって説明するポアソカレの説は誤っていない。反対にそれは確証される。しかも、この説に依拠することによってさえ、あの虚像連続に与えられる第四次元の呼称を正当化できるのである。

この虚像連続の切断について言えば、三次元の物体=型によって初めて切断できるかもしれないし、この物体=型は、その幾何学的無限のなかで考察されるものである。鏡のなかの反射(虚像)[。][図24]

三次元の連続の外観を与える二次元の透視図法から、四次元のあの連続の三次元の(あるいは場合によったら二次元の)透視図法を構成すること。

物 理現象の探求の手段である数学の中での多次元解釈として、このポアンカレ幾何学の概念が生まれた。ポアンカレ幾何学とは、切り口が点となるのが一次元 (線)で、切り口が線となるものを二次元(面)で、切り口が面となるものが三次元(立体)で、切り口が立体となるものが四次元(超立体)となり・・・解釈 は延々と続く。

2009年3月9日月曜日

エコー。潜在的な音

エコー。潜在的な音[虚音]

第四次元としての潜在性[虚性]とは、感覚的外観を持つ(現実)ではなく、ある量塊の潜在的表現[代理表象](鏡のなかのその反射に類似した表現)。
三次元の物体の虚像の無限増殖。これらの虚像は無限小であり、無限大である。
ABCDEF について。[それらは]空間の諸点であり、これら諸点に対して新しい物体Oに接する糸が(一方では、端で)結びつけられている。これらの糸は接点から出発 して、「カタツムリのように」螺旋状をなして巻きつき新しい重力点に向かう。それゆえ、物体Oは、(一)空間に接する。(二)その形はこの新しい点(一時 的には、重力点)によって規定される。この点の分離作用の特性は空間の境界に対してだけ作用する。すなわち、物体Oの極限の形は、二つの力(空間における 引力と広がりにおける分離)の結果である。
図形的にはこの分離の力は接触の糸によって表わされる。
新しい重力点の他の特性を探求すること。
た とえば、(それは)中心への物体O従属運動の等速性ではない。すなわち、この運動は往復運動でありうるし、物体Oは往復的自由を享受するのである。この自 由を測定する時間の間隔は、一定間隔の時間がつき従うが、この一定間隔の時間の間に物体Oがいくつかの条件つきの(これら条件を探究すること)中心によっ て規定されるのである。これらの時間間隔は二次元あるいは三次元の持続である(「ピストルを噛む男」における横からみた文字盤の特殊な展開を検討するこ と)。

わたしたちが現実だと思っている世界は実は映像(虚像)の世界であり、映像(虚像)の原像は『今、ここ』の積み重ねに過ぎないことが、映画フィルムが見事に表しているのであります。
静止画フィルムは空間つまり三次元世界であり、動画面が時空間つまり四次元世界であります。
四次元世界とは三次元世界の映像(虚像)に外ならない。
実体(実像)は三次元世界であり、四次元世界は映像(虚像)に過ぎない。 (新 田 論)

ドゥルーズの運動イメージ、時間イメージとの関係で考えた方がいいかもしれない。

四次元を虚像としてとらえて、三次元の「今、ここ」を生きると考えると、永劫回帰のようなイメージになる。

2009年3月8日日曜日

光と影


光と影は三、二、一次元と同じように四次元にも存在する。[図10]

三次元の透視図法は、変形しない最初の[?]正面図から出発する。
四 次元の透視図法は、出発点として、変形しない三次元の立方体あるいは媒体を持つであろうが、その三次元の立方体あるいは媒体においては三次元の物体は周辺 部可視性過多過小的[要するに可視外の]抱擁に包まれる。([それは]目で見られるのではなく、手で掴まれるかのようである)。

図10 立体 四次元の環境に
おけるある要素の切断部

─点が線を切断し面を切断しないのと同様に、無限の線あるいは表面の要素が量塊を切断しながら、四次元の「固体」を切断しないが、面または表面は四次元のこの固体を切断する。
─四次元のこの固体は三次元の複数の量塊によって限定されるだろう。

われわれの空間上への四次元の図形の射影は、三次元の影である(『ジュフレ四次元の幾何学』、一八六ページ、最後の三行を見よ)
一 空間による、四次元の図形の三次元の断面図について。一軒の家の各階の図面を描く建築家の方法に類似して、四次元の図形は三次元の断面図によって(各階ご とに)措けるだろう。これらそれぞれの階は、四次元によって互いに結びつけられるだろう。三次元の図形のすべての平面あるいは面を規定するように、四次元 の図形の三次元の状態すべてを構成すること。

─言い換えれば、四次元のある形は、三次元の無限の相のもとで知覚される(?)。これら無限の相とは、この図形を包み込む無数の空間(三次元の空間)をともなう四次元のこの図形の断面図である。
─ 言い換えれば、広がりの四方向にしたがって四次元の図形の回りを廻ることができる。知覚する人の位置の数は無限であるが、これらさまざまな位置を有限数に 減少させることはできる(たとえば、三次元の規則的図形の場合がそうである)。そのとき、それぞれの知覚はこれらさまざまな位置においては三次元の図形と なる。四次元の図形の三次元でのこれら知覚の総体は、四次元の図形の再構成の基礎になるかもしれない。

類推によれば、二次元の平らな存在 は長さを持つ。この長さはある軸の両側に対称的に配置されるが、この軸は平面内を想像的に引き伸ばしていけば、やがて二次元の個別のすべての軸に共通な極 に、三次元の重力均衡に対応する平らな均衡を規定する極にたどり着く。(この二次元の軸はコンパスであろうか、それとも二次元の連通管式水準器だろう か????)。四次元の広がりでは、垂直面と水平面はそれらの基礎的な(基礎の)意味を失う─(二次元の平らな存在が、それを支える平面が水平であるか垂 直であるか知らないのと同様である)。

従来の絵画が現実の三次元の事象を二次元の平面上に投影する作業です。

それに対して、「大ガラス」の具体像化は、「不可視の四次元」の事象を三次元のガラスに投影することです。彼によれば、それは、「計算と次元の考えに基づく数学的、科学的な透視画法」によってなされます。
ここでデュシャンは、例によって「四次元」の概念を「少しばかり」拡張しています。

彼は、<超喩>による意味の多重化を四次元の多重項とみなしています。<超喩>は、彼の考えでは、四次元の事象なのですね。

この点からみると、デュシャンの「透視画法」は、「不可視の四次元」の事象から時間軸を縮退させる、(一次元減じる)ことによって成立する「遅延」的手法だといえるでしょう。

 この「透視画法」による「大ガラス」の具体像化は、「計算」に基づいて設計図を描く厳密さで下図がとられ、描線に代えて細い鉛線が使われるなど、 恣意的な感性の表現とみなされる要素を極力排除する徹底した事物化によってなされています。このようにして、具体像「大ガラス」は、ガラス板の間に封じ込 められ、文字通り閉じられた像として観衆の前に提出されます。

「大ガラス」の徹底した事物化による自閉性は、それをあらたな絵画的表現として見ようとする観衆の視線を「そらし」、ふたたび「遅延」自体の意味を 問う地平に連れ戻します。なにしろ、そこの描かれているのは四次元の事象の投影図ですから、三次元にいる私たちにはなんだかわけの分からない像ではあるの ですね。

「アメリカ現代美術は何を残したか」 河瀬 昇 より

2009年3月6日金曜日

四次元の目の構成


四次元の目の構成
次のような始まり─ある円周が、(視線がこの円周を含む平面のなかに入り込むまで、上下に移動する三次元の目から見れば)練達近法[透視図法]の法則によって慣習的に規定された多くの形を通過する。
次 のような結末──(三次元の目にとって一つの球体は、視点のようであれ、常に球体自体に等しい)。しかしある球体が、(四次元の視線が普通の三次元の目の 視線になるまで、四次元的に移動する四次元の知覚から見れば)視線を縮小することなく少しずつ量塊を減らす三次元の球体から単なる平面の円周に至るまで多 くの形を通過する。
[一九一四年一一月一一日の日付のガス料金請求書の裏に]

ここからも引用ですが、類推で感覚をつかまないといけません。

次元とは何なのだろうか?

 そこで、四次元の構造物を、三次元の世界から眺めるとどういうことになるのか考えてみよう。一次元は、点だけの世界だ。二次元は、平面の世界で、縦軸と横軸の世界になる。

○四次元の球体は不思議な挙動を見せる

 立体の世界は、三次元になる。X軸、Y軸、Z軸の座標軸で描ける立体だ。四次元になると、もうひとつの軸が加わる。W軸がもう一本ふえる。この軸は時間とともに不思議な変化をする。
 三次元の世界から、この四次元の世界の球体を覗くといったいどういうふうに見えるのだろうか。はじめに、四次元の球を超球体としてみる。この超球体を三次元からみると、どの方向からみても同じ球に見える。
それでは、どこに違いがあるのだろうか? 
このことを知るのに、まず超球体の超表面にに色をさまざまに塗り、超球体の中心をかえずに回転させる。すると、全体が、赤くなったり青くなったり時間とともに奇奇怪怪に変化する。
三次元の球ならば、幾ら時間がたっても赤く塗ったところは赤く、黄色に塗ったところは黄色に見える。それは、表面が平面だからだ。
しかし、超球体Iの表面は立体=球である。 

超球体の断面は、全体として変体するように見えるが、三次元の立体に投影されているのは、超球体の一断面の部分だ。

だから、全体の超球体はけっして見ることができない。

このことを想像するのは難しいことだ。超球体Iは分割しても、また球である。
つまり、3次元からみるといくつに切っても同じもの=立体の球が表れることになる。 

 これを、理解するには、二次元と三次元の関係におきかえてみる。いま仮に、二次元の人間がいるとしよう。この二次元に住む人間が三次元の球を見た とすると、それはただの円としか見えない。三次元の人間がこの球に色をさまざまに塗り、これを回すと、二次元の人間は、手品を見せられているように感じる はずだ。平面しか見えない彼にとって、平面の円のなかの色が時間とともに変化するのはなぜかさっぱり分からない。それは、彼は三次元の断面を見ているので ある。それは、三次元の裂目のようなものだ。

 三次元の球を次々に切ってみると二次元の人間には、やはり円に見える。ただ、次々に大きさが異なっていることは分かる。 

 これと同様に四次元の球を切ってみると、三次元からは大きさが変化することは観察される。大きさが変化するとは三次元の断面(裂目)からは、その一部を次々に見ていることだ。
しかし、その切断の部位は知ることは全くできない。

 四次元で少しも不思議でないことが、三次元からは不思議に感じられる。四次元世界の断面が三次元であるということは、三次元の人間が映画を見るように、この立体の世界を見ているのだと、実際にはこのようにしか例えようがない。

2009年3月5日木曜日

四次元の透視図法


四次元の透視図法のために透明なガラスと鏡を使うこと
類推推理、つまり四次元の透視図法について。四次元のある物体の、三次元の透視図法的表示は 三次元の目にとって知覚可能であろうが、それは、ある大聖堂の平面透視図法が二次元の平らな目にとって(三次元の目ではなく)知覚可能であるのに似る=二 次元の目にとってのこうした知覚は(距離感覚へ
差し向けられた)移動知覚である=二次元の目は三次元の透視図法については触覚しかもたないであろ う。二次元の目はある点から他の点へ移動し、距離を測らなければならないだろ亨二次元の目は三次元の目のようには概観[全体像]を持つことはないだろう。 類推推理によって、四次元の透視図法に対
する三次元の目の移動知覚を。

「触覚による識別」あるいはある円周の回りを二次元の目が一平面内で移動することと、一視点に固定される二次元の同じ目がこの同じ円周を見ることとの差異。
同様に、「触覚による識別」、つまりある球体の回りを普通の目が三次元の移動をすることと、一視点に固定される同じ目がこの同じ球体を見ること線遠近法[透視図法]との差異。
同様に、四次元の領域には同じ差異が存在する。つまり、四次元には「触覚による識別」と四次元の物体の、三次元での透視図法的視覚的知覚がある。
三次元でのこの透視図法的視覚的知覚は四次元の目によってしか捉えられない。
三 次元の目ではこの透視図法的視覚的知覚をうまく捉えられないだろう(二次元の目では一円周の射影=線[?]しか見えないのと同じように)。三次元の触覚的 識別つまり旋回的移動によって、多くの四次元の物体の想像的再構成が場合によったら可能になろう。そしてこうした再構成が三次元の環境にこ
の透視図法を与えることができるだろう。
          [一九一四年九月一四日の日付のついたガス料金請求書の裏に]


覗き穴と鏡によって三次元を二次元に対応させ、閉じこめることのできる仕掛けについて、透視図法が使うことができる。

伊藤セイコウ氏によると、透視図法を確立したブルネレスキがデュシャンを解く鍵になっているという。

『不実なる鏡』(人文書院)で著者テヴォーが示してくれた図にあるように「フィレンツェの大聖堂の中央扉口から眺められた洗礼堂を、可能なかぎりイ ルージョニスティックな仕方で、厳格に遠近法を適用しながら描き出した小さな板絵」である。女性が左手で持っているのは鏡で、右手に持っているのが板絵 だ。板には小さな穴が開いており、人 はそこから鏡を見る。すると、「板の表側の絵がその鏡に映し出される」のである。

また、十五世紀初頭にアントニオ・マネッティが書いた『ブルネッレスキ伝』(中央公論美術出版)に記録のある装置にある図はアレッサンドロ・パッロンキ教授によって想像復原されたもので、洗礼堂を左右逆に描き、鏡を通してバーチャルなリアリティを追求している。

「大ガラス」においては“向こうが透けて見える鏡”を使うことで、三次元を二次元に対応させ、閉じこめたのだという。

2009年3月4日水曜日

類似について


類似について、
 透視図法的眺望と円との─消失点と中心との─類似
 透視図法的眺望においては円周そのものは何に対応するのだろうか。[図9]

三次元の高みから見た平面において
直線でできる角が─鋭角であれ鈍角であれ─直角と最大一八〇度とに対する関係は、規則的連続的平面曲線が直線に対する関係と似る。つまり(規則的連続的平面曲線は、直線、円、楕円等々に対して定義される曲線である)
不規則的連続的曲線が直線に対する関係と似る、直角と最大一八〇度に対する角の関係が、直線に対する不規則連続曲線の関係と似るとき、この角をどのように表現すべきなのかあるいは想像すべきなのか(角、直線、曲線等々の概念の明確化に役立つために)

鏡=三次元への射影。ある立方体へのある物体の射影と三面鏡との比較。
鏡のこの実像は潜在的な三次元を持つ。鏡は平面だからである。
(不完全?)
 [裏に筆跡はM・D・ではない]
パリ、一九一三年五月二七日
レ・デュムシェル
パリ、ラ・クレ街四四番地

フランスの数学者ポアンカレによる4次元の定義 

もし、物理的連続体Cを、すべてが互いに他の要素と識別し得るような有限個の要素からなる切断によって分割できるならば、われわれはCを1次元の 連続体と呼ぼう。もしCが、それ自身が連続体であるような切断でなければ分割されないのであれば、Cは多くの次元を有するという。もし、切断が1次元の連 続体ならば充分だというときには、Cは2次元を有するという。2次元の切断で充分ならばCは3次元を有するという。以下、同様である。

 切断が3次元の連続体ならば、その物理的連続体は4次元を有する。そしてこれは5,6次元にも、そして、より高次元に対しても拡張可能である。ま た、裏を返せば、これはn次元の存在者はn+1次元の連続体を、あくまでn次元の空間内でしか認識し得ない、ということである。したがってn+1次元の連 続体がn次元において認識可能である場合、その連続体はn次元内での切片として-つまりn次元の連続体として-のみ、n次元の存在者に認識される。例えば 三次元の連続体が二次元の空間を通過する際、その連続体は二次元の存在者にとって、あくまで面の連続の-したがって連続体の形によっては、面の形状の連続 的な変化の-投影としてのみ捉えられる。したがって、四次元は不可視となる。

2009年3月3日火曜日

透視図法


透視図法。

検討すること、サント・ジュヌゲィエーゲ図書館のカタログ、次の項目全体を。
 透視図法。
 ニセロン(神父J.,Fr)光学の魔術師
    [見本、上質紙─九〇ポンド─なめらかなものの上に]

三次元の線遠近法[透視図法]

平面図
Dは(視点)からの距離を示す

透視図法に転写したものについて、
AD、FD、GD、CDは鉛直線である
?検討すること、停止原器と赤いやつの透視図法のためにつくられた写真を。             図6

右と左→二次元平面
上と下→三次元空間

右と左=二次元平面
上と下=三次元空間

図7

重力と重力の中心は三次元空間内に水平と鉛直をつくる
二次元平面においては─消失点は重力の中心に対応するが、これらすべての平行線は、重力の中心にすべて向かう鉛直線に類似して消失点に集まる。
物 理的には─目は透視図法の器官である。その点において透視図法は、一つの色に似ている。触角は色として監視できないからだ。重力は、われわれにおいては普 通の五感の一つでは物理的に統御できない。われわれは常に重力体験を、胃に向かって内的に感じ取られる想像の自己検証あるいは現実の自己検証に還元してし まう。

疑似球体(中心の射影)[図8]

図8              図9


彼 が1913年末から1914年一杯まで司書として勤めたサント=ジュヌヴィエーヴ図書館のそれに関するすべての文献に目を通すこと、とのメモが残ってい る。この時期は『大ガラス』制作の準備期間に相当するから、デュシャンは大方このメモ通りに行動したと思われる。このことはジャン・クレールが指摘するよ うに、サント=ジュヌヴィエーヴ図書館に所蔵される透視図法に関する書籍の内容と『大ガラス』の比率との一致が物語っていよう。また『大ガラス』と透視図 法との関係は以下の論文に詳しい。Jean Clair, Marcel Duchamp et la tradition des perspecteurs, Marcel Duchamp, abécédaire, Musée National d'Art Moderne, Centre National d'Art et Culture Georges Pompidou, Paris, 1977;ジャン・クレール「デュシャンと遠近法理論家の伝統」横張誠訳、『エピステーメー』、11月号、1977年。

2009年3月2日月曜日

外観と出現


外観と出現
たとえばチョコレート製物体の  外観
出現
(一) この物体の外観とは、この物体についての普通の知覚を可能にするような日常的な感覚データの総体であろう(<心理学概論>を検討すること)。
(二) 物体の出現とは物体の鋳型である
  すなわち、
   (a)(チョコレート製の物体のような空間の物体にとっては)表面への出現があるが、この出現はこの物体の製造に役立つらしい一種の映像=鏡のようなも の、鋳型のようなものである。しかし形のこのような鋳型はそれ自体では物体ではなく、それはn次元のこの物体の主要な点がn-1次元に現われる映像であ る。三次元の外観は、その外観(の形)の鋳型である二次元の出現から生じる。
  (b)鋳型のもう一つの部分として[─?]、天然の色での出現がある。
   天然の色は色ではない(外部からくる何かしらの照明の、青、赤としての反射という意味で)。それらは、光学活性の色を生み出す光源である─すなわち天然 なチョコレート表面は、一種のチョコレート燐光からできることになるだろうし、この燐光がこのチョコレート製物体の鋳型としての出現を完全なものにする─
したがって、一方では天然の色、チョコレート色をした二次元の形は、鋳型でなければならないようであり、[他方]でチョコレート製の三次元の物体を生み出さねばならないようである。
天然の色が出現するとき、現実の色を規定するのだが、この現実の色は外部照明が自然な染色によって外観へ光をあてるために変化する。
天然の色は一般にマチエールに関係する。あらゆるチョコレートを規定するのに役立つ唯一の天然の色、チョコレート色が存在する。

説明すること
出現
否定
 
物理的外観(色、量、形) において考察される物体が与えられたとする。この物体の鋳型を定義すること(図形的に、つまり絵画的慣習によって)。
鋳 型が意味するのは、形と色から見れば、(写真の)ネガであり、塊から見れば、光の要素から構成される一つの面(基本的な平行関係によって物体の形を生み出 すもの) である。(強度の等しいこの光は、色=源(ただし、物体の外部の光源に従属する色ではない色)の差異によって表現される[閉じ括弧なし]。
た とえば、チョコレート製の物体の鋳型は、いくつかの色をもつ面のネガ的出現である(ここでいう色は、典型的なこうした物体[客体]・主体を含むような空間 内でのこの物体の位置によって慣習的に(透視図法的にたとえば三次元空間によって)規定される色のことである)が、この面の方は、
(一) この物体の色つきの形を、
(二)  光の諸要素、言い換えれば決定的役割を果たす一種自然な染色 としてのチョコレートの諸要素からなる塊を生み出す。ここで決定的役割を果たすとは、出現 (鋳型)から外観(チョコレート製の物体)への移行において、チョコレートの色とチョコレートの塊が異なる照明であらゆる視覚的変換を被るからである。

一。 物体は発光している。光源。物体の本体は光る分子から構成され、照明を当てられた諸物体のマチエールの源としてのマチエールになる(たとえば、光を発する チョコレートは、五感によって監視される物理的存在を持つチョコレート・不透明なマチエールレの原子的鋳型である─[閉じ括弧なし]

光を発する物体は一つの出現である。

デュシャンは、ルーアンにて蒸気機関で動くチョコレート粉砕器を見て〈独身者の機械〉の構想を得たとされています。

デュシャンは何の変哲もないお菓子の製造機械に独身者の欲望を発生させるという隠喩的な意味を与え、独身者の機械、「チョコレート粉砕器」とします。