2008年6月2日月曜日

1914年のボックス 読解(12)

(アール)担保arrheの(アール)芸術artに対する関係は、(メルドル)糞ったれmerdreの(メルト)゙糞merdeに対する関係に等しい。
 担保 arrhe     糞ったれ merdre
 ───────── = ────────────
 芸術 art       糞     merde
文法的には、絵画のアール担保は女性である。



訳注

1-《糞ったれ》merdreは、周知のように一八九六年、A・ジャリの演劇『ユビュ王』の幕開きとともに発せられた言葉であり、意味の上ではほとんど《糞っ》merdeと変りはない。しかし、ジャリは《r》を付け加えることによって《愚鈍さや臆病さ偽善に対する満身の反抗》(J.H.Leresque Alfred Jarry,éd.Seghers,poèetes d'aujourd’huj 24.1967,Paris.p9)の身振りをそこに定着したのである。それに対して《担保》arrheは語源的に《芸術》artと関係があるわけではなく、一応まったく別の言葉である。ただし、この語は常に複数形《arrhes)で使われるのが普通であり、その限りでは《merdre》と同様、辞書には見出せない言葉である、と言うこともできるかもしれない。また、《arrhe》も《art》に《r》が付け加えられた形をしていることも見逃せないだろう(周知のようにアランス語ではhは発音されない)。


1896年の『ユビュ王』の初演は伝説になるほどだから、merdreは常識だったのだろう。


出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
アルフレッド・ジャリ(仏:Alfred Jarry, 1873年9月8日
-1907年11月1日)は、フランスの小説家。ブルターニュ地方に近いマイエンヌ県ラヴァルで生まれた。母方からブルトン人の血を引く。代表作は、戯曲「ユビュ王」(Ubu
Roi,1896)、小説「超男性」(Le Surmâle,1901)。1907年に34才の若さで結核によって亡くなった。
戯曲「ユビュ王」は1920-1930年代のシュールレアリズム演劇の先駆的な作品と評される。不条理文学の分野における開拓者ともみなされる。
小説「フォーストロール博士言行録」('Gestes et opinions du docteur Faustroll,
pataphysicien',1899)において、「形而超学」とも呼ばれる「パタフィジック」w:pataphysics)なる概念を提起した。

次の本が見つかったら是非読んでみたいと思う。

超男性ジャリ 著:ラシルド夫人 訳:宮川明子 出版社:作品社

「不条理の悪魔」と呼ばれた詩人の奇想天外(超男性的)、荒唐無稽(ユビュ的)、シュルレアリストたちを震撼させた「狂気の魂」の生涯。ジャリの女友達がつづった同時代回想録。
目次:
1 メルキュール・ド・フランスの集いで
2 ジャリの家族
3 ベルト・ド・C壌
4 『ユビュ王』
5 ユビュ事件
6 ファランステールのアルフレッド・ジャリ
7 博学のスポーツマン・ジャリ
8 三脚檣のアルフレッド・ジャリ
9 クードレイの堰の宴
10 見事な最期



2-いずれにせよ、常識的に考えれば、右側の関係と左側の関係とは、等号で結ばれるほどはっきりと等価ではないように思われるであろう。だが、あえてそれらを等価に見立てればどうであろうか?-ⓐ-《merdre》と《merde》が同じものだという面においては、これは《芸術》とは《担保》(あるいは《手付金》)のようなものだという《芸術》に対する一種の侮蔑となる。ⓑ-《merdre》が《merde》とは決定的に異なる次元を獲得しているという面では、もはや《芸術》という言葉が入り込むことのできないパタフィジィカルな次元、《担保》と言われるような永遠の《留保》や《遅延》しかあり得ないような新しい次元が開示されていることになろう。

3-ところが、ここにもうひとつの転換が起ってくる。それは、性の変換であり、《art》、は男性名詞であるが、《arrhe》は女性名詞なのである(こうした変換は《merdre》⇔《merde》では起らない)。デュシャンはこれをメモの後半で強調しているのである。

4-このように、デュシャンにおいてはa/bという《代数的比較》の形式ほ実に様々な意味をもってくる。《a/bという関係は、全体とa/b=cであるようなcという数のうちにはない。それはaとbとを隔てている言という記号のうちにあるのである》(DDS44頁)。だから、われわれは《arrhe》と《art》、《merdre》と《merde》の関係を何かひとつの概念のうちに還元するべきではなく、それらの近付き合い、隔て合う関係そのものにおいて把えなければならない。

基本的には、aとかbに意味があるのではなくa/bの関係に意味がある。アンフラマンス『超薄』につながる概念かもしれない。J・クレールによると、アンフラマンスというのは、「物質的な薄さや人間の感覚域に関わる薄さではなく、「平面(二次元)からヴォリューム(三次元)へのパサージュ」に本質が存在すると言っている。

5-マルセル・デュシャンによれば a/bは花嫁/独身者と、つまりMAR(iée)/CEL マル/セルと読まれなければならないと言う(Marcel Jean,《Histoire de la Peinture Surréaliste》Le Seuil.pp.105-107)。このようにa/bをそのまま《大ガラス》に重ね合わせたとすると、このメモにおいて上部が女性形名詞、下部が男性形名詞であることは極めて興味深い。またその場合、《大ガラス》の下部がいわゆる伝統的な透視法で描かれ(art)、上部が四次元世界のバタフィジィカルな表現(arrhe)になっていることに注意したい。(この問題に関してはJean Suquet,《Le signe de la concorde》,in《Arc》n.59,1974,Parisを参照)。

6-なお、《r》の付加ということについては、デュシャンのもうひとつの名《ローズ・セラヴィ》がわざわざ《Rrose Selavy》と《r》をダブラせてあることも参考になろう。

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