2008年5月27日火曜日

1914年のボックス 読解(11)


─太陽のなかに徒弟をもつ─



訳注

五線譜に描かれている。左下に、《Marcel Duchamp1914》とサインされている。

1-《太陽のなかに徒弟をもつ》という言葉はそのままの形で『グリーン・ボックス』のなかのメモに現われる。《〔照明用〕ガスから傾斜面に至るまでの改良/「傾斜面」の項目への「註釈」として=写真を撮らせる、太陽のなかに徒弟をもつ》(DDS76貢)。ここでは,この言葉はこのメモのデッサンそのものを指しているように思われるが,確かではない。

2-しかし『グリーン・ボックス』のメモを媒介にしてこのメモと《大ガラス》を結びつけることはできる。その場合は、自転車に乗る男は《独身者》、坂は《大ガラス》の未完成の部分《トボガンの流れの坂》として解釈される可能性がある(A・シュヴアルツ,CW147貢参照)。

3-自転車のスケッチは当然、このメモが書かれる前の年(1913年)の《最初のレディ・メイド》と言われる『自転車の輪』(S205,Ph94,p87)を想い起させるだろう。また、A・ジャリのパタフィジィカルな物語のひとつ『受難を丘のぼり競走にたとえれば』(アンル・プルトン『黒いユーモア選集』下巻、国文社,1969年73-76貢参照)のイメージとの親近性を見出すこともできるだろう。

元の記事 Marcel Duchamp, Avoir l'apprenti dans le soleil [To Have the Apprentice in the Sun], 1914

基本的には、「トボガンの流れの坂」を上る「独身者」ということなのだろう。
A.ジャリの超男性における自転車レースとの関係は強く感じる。

『超男性』には副題がついている。「現代小説」というものだ。 これは、前作の『メッサリーヌ』(1901)に「古代ローマ小説」という副題がついていることを踏襲したジャリの“作法”ともいうべきもので、しかも鬘をつけていたメッサリーヌに“超女性”を演じさせていたのに対照して、『超男性』の主人公アンドレ・マルクイユを現代そのものに仕立ててみたかったという、そういう対応の趣向を暗示した。 しかし、この「現代小説」はそんじょそこらの現代小説ではなかった。なにしろ主人公のアンドレ・マルクイユはつねに競争しつづける機械なのである。最初は5人のサイクリストと1万マイルを競争する。競争者たちには小人や影と列車とも加わった。 次の競争は、リュランスの城の大広間における愛の競争である。マルクイユはエレンとの死闘をくりひろげるが、そこにはまさにスポーツを観戦するかのように、ガラス窓をへだててバティビウス博士、7人の娼婦、怪物のような蓄音機が、目撃者として参加した。 最後の競争は、この現代小説を包みこむ全体としての競争ともいうべきもので、もはやパタフィジックとしかいいようのない愛と機械の競争である。新しい神話としか名づけようのない神学的でエロティックな永久運動そのものがひたすら提示されるのだ。 こういう現代小説は、その後はほとんどあらわれてこなかった。ジャリだけが描きえた文学の近代五種競技であり、言語のトライアスロンなのである
松岡正剛「千夜千冊」『超男性』A.ジャリ より

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