帰結について。
たとえば、表面=蝶番の上の一立方体の切断部は正方形であろう。つまり、この正方形は無限の表面を移動せず、静止し、しかしながら表面の正方形の切断部として自己回転しなければならないだろう。
どのような意味をこの最後に文に与えることができるだろうか。
線=蝶番が自己回転するとき、この線のそれぞれの点は線の回転の過程でこの蝶番の上に(この点そのものに対して)直角に交わる線を引いた。類推するならば、正方形=表面=蝶番のそれぞれの線は、正方形に対して直角に交わる平面をもたらさねばならないだろう。
私に言わせれば、正方形=表面=蝶番の線は、点が線の要素を意味したように表面の要素を意味する。
一 球体(たとえば、半径が一〇センチの球体)から始めるとき、この球体つまり三次元の連続は、四次元の連続のなかの切断部である。ここでいう四次元の連続と はこの球体の無限増殖された虚像によって、すなわちこの球体が占有しうる三次元の連続的位置によってそしてあらゆる大きさによって構成される
ものである。つまり
(一) 三次元の幾何学空間における何かしらの物体は、その三つの次元のそれぞれの測定値によって位
置 づけられる。この測定値つまりその形の算術的(あるいは慢性的な)定式はこれら三つの次元の、それぞれのそれぞれに対する恒常的関係によって、そ の<現実>を規定する。三次元のこの<現実>は、この物体より大きいか、等しいかあるいは小さいかの像の無限反復の機会である。 しかし、数が無限のこれらの像のそれぞれは、物体=型[典型としての物体?]の三つの次元の恒常的関係に従う。
(二) これら虚像の無数 の総体(ア・プリオリに無限の[?]総体)は、四次元のある連続と三次元の連続(幾何学的無限)もまた構成する。実際、幾何学的無限は、確かに一連続なの だが、その三つの次元は、公理としての点から発しているゆえに、それらの無限定性において考察されるのである。─逆に、虚像の連続は三次元の幾何学的量塊 から発するのであり、連続を構成する虚像は、三次元の物体の転置である。
物理空間に非常に慣れ親しんだわれわれの感覚は、たとえば五次元の連続の概念化を容認しがたい。五次元の連続とは、三次元の物体が、四次元におけるその概念化によってすでに与えた超虚像総体であるようなものだからである。
(三) 反論について。四次元なるものは、第一次元、第二次元、第三次元が持つような触覚対応物あるいは感覚対応物を持たないからには、四次元という語の意味は何か。[図23]
図23
第五次元について、仮設的に次のように想像できる。四次元の連続においてそれぞれの虚像を規定する恒常的比率は恒常的であることを止めるが、それでもそのために比率であることは止めない。説明すること。
同様に、四次元の連続について。n次元の連続をn-1次元の連続の切断によって説明するポアソカレの説は誤っていない。反対にそれは確証される。しかも、この説に依拠することによってさえ、あの虚像連続に与えられる第四次元の呼称を正当化できるのである。
この虚像連続の切断について言えば、三次元の物体=型によって初めて切断できるかもしれないし、この物体=型は、その幾何学的無限のなかで考察されるものである。鏡のなかの反射(虚像)[。][図24]
三次元の連続の外観を与える二次元の透視図法から、四次元のあの連続の三次元の(あるいは場合によったら二次元の)透視図法を構成すること。
2009年3月10日火曜日
帰結について
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物 理現象の探求の手段である数学の中での多次元解釈として、このポアンカレ幾何学の概念が生まれた。ポアンカレ幾何学とは、切り口が点となるのが一次元 (線)で、切り口が線となるものを二次元(面)で、切り口が面となるものが三次元(立体)で、切り口が立体となるものが四次元(超立体)となり・・・解釈 は延々と続く。