2009年3月8日日曜日

光と影


光と影は三、二、一次元と同じように四次元にも存在する。[図10]

三次元の透視図法は、変形しない最初の[?]正面図から出発する。
四 次元の透視図法は、出発点として、変形しない三次元の立方体あるいは媒体を持つであろうが、その三次元の立方体あるいは媒体においては三次元の物体は周辺 部可視性過多過小的[要するに可視外の]抱擁に包まれる。([それは]目で見られるのではなく、手で掴まれるかのようである)。

図10 立体 四次元の環境に
おけるある要素の切断部

─点が線を切断し面を切断しないのと同様に、無限の線あるいは表面の要素が量塊を切断しながら、四次元の「固体」を切断しないが、面または表面は四次元のこの固体を切断する。
─四次元のこの固体は三次元の複数の量塊によって限定されるだろう。

われわれの空間上への四次元の図形の射影は、三次元の影である(『ジュフレ四次元の幾何学』、一八六ページ、最後の三行を見よ)
一 空間による、四次元の図形の三次元の断面図について。一軒の家の各階の図面を描く建築家の方法に類似して、四次元の図形は三次元の断面図によって(各階ご とに)措けるだろう。これらそれぞれの階は、四次元によって互いに結びつけられるだろう。三次元の図形のすべての平面あるいは面を規定するように、四次元 の図形の三次元の状態すべてを構成すること。

─言い換えれば、四次元のある形は、三次元の無限の相のもとで知覚される(?)。これら無限の相とは、この図形を包み込む無数の空間(三次元の空間)をともなう四次元のこの図形の断面図である。
─ 言い換えれば、広がりの四方向にしたがって四次元の図形の回りを廻ることができる。知覚する人の位置の数は無限であるが、これらさまざまな位置を有限数に 減少させることはできる(たとえば、三次元の規則的図形の場合がそうである)。そのとき、それぞれの知覚はこれらさまざまな位置においては三次元の図形と なる。四次元の図形の三次元でのこれら知覚の総体は、四次元の図形の再構成の基礎になるかもしれない。

類推によれば、二次元の平らな存在 は長さを持つ。この長さはある軸の両側に対称的に配置されるが、この軸は平面内を想像的に引き伸ばしていけば、やがて二次元の個別のすべての軸に共通な極 に、三次元の重力均衡に対応する平らな均衡を規定する極にたどり着く。(この二次元の軸はコンパスであろうか、それとも二次元の連通管式水準器だろう か????)。四次元の広がりでは、垂直面と水平面はそれらの基礎的な(基礎の)意味を失う─(二次元の平らな存在が、それを支える平面が水平であるか垂 直であるか知らないのと同様である)。

従来の絵画が現実の三次元の事象を二次元の平面上に投影する作業です。

それに対して、「大ガラス」の具体像化は、「不可視の四次元」の事象を三次元のガラスに投影することです。彼によれば、それは、「計算と次元の考えに基づく数学的、科学的な透視画法」によってなされます。
ここでデュシャンは、例によって「四次元」の概念を「少しばかり」拡張しています。

彼は、<超喩>による意味の多重化を四次元の多重項とみなしています。<超喩>は、彼の考えでは、四次元の事象なのですね。

この点からみると、デュシャンの「透視画法」は、「不可視の四次元」の事象から時間軸を縮退させる、(一次元減じる)ことによって成立する「遅延」的手法だといえるでしょう。

 この「透視画法」による「大ガラス」の具体像化は、「計算」に基づいて設計図を描く厳密さで下図がとられ、描線に代えて細い鉛線が使われるなど、 恣意的な感性の表現とみなされる要素を極力排除する徹底した事物化によってなされています。このようにして、具体像「大ガラス」は、ガラス板の間に封じ込 められ、文字通り閉じられた像として観衆の前に提出されます。

「大ガラス」の徹底した事物化による自閉性は、それをあらたな絵画的表現として見ようとする観衆の視線を「そらし」、ふたたび「遅延」自体の意味を 問う地平に連れ戻します。なにしろ、そこの描かれているのは四次元の事象の投影図ですから、三次元にいる私たちにはなんだかわけの分からない像ではあるの ですね。

「アメリカ現代美術は何を残したか」 河瀬 昇 より

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