一 余白のノート
『彼女の独身者たちによって裸にされた花嫁、さえも』とは、つまり既製品を、次々と、自然に思いついたものからそらすためのもの。─そらしとはひとつの操作である。
一種の副題として
ガラス製の遅延
タブロー盲枠に入った作品]あるいはパンチユール[絵画一般]という代わりに「遅延」という語を使うこと。そうなれば、ガラス上のタブローはガラス製の遅延になる。─しかし、ガラス製の遅延はガラス上のタブローを意味しない。─
それはただ単に、問題のものがタブローであるとはもはや考えないですむ手段なのである─タブローをできるだけ全体にわたって遅延に変えること、遅延という語が取りうる多種多様な意味においてではなく、それら意味の未決定な集合において。「(遅延)」─ガラス製の遅延、つまり散文[による]詩あるいは銀製のたんつぼというように。
一九一二年
五つの心臓を持つ機械、ニッケルとプラチナでできた純粋な子供はジュラ=パリ間の道路を支配しなければならない。
一方では、裸の五人のうちのリーダーはこのジュラ=パリ間の道路に向かって裸の他の四人の先頭に立つだろう。他方では、子供=ヘッドライトはこのジュラ=パリ間の道路の征服の道具となろう。
この子供=ヘッドライトは、図形的に言うと、彗星になるかもしれない。この彗星は尾を前方になびかせるような彗星である。尾は子供=ヘッドライト の付属物であり、付属物といっても、ジュラ=パリ間の道路を粉々に砕きながら(図形的に言うならば、金粉状にして)吸収する付属物なのである。
ジュラ=パリ間の道路は、人間から見るかぎり無限であるはずなので、一方で裸の五人のうちのリーダーのなかでも他方で子供=ヘッドライトのなかでも一つの終わりを見出すとしても、無限という特性の何ものをも失わないだろう。
「無際限の」という用語の方が無限のという用語より私には正確なように思われる。ジュラ=パリ間の道路は裸の五人のうちのリーダーに始点を持ち、子供=ヘッドライトには終点を持たない。
図形的に言うならば、この道路は 厚みのない幾何学的な純粋線に向かうだろう(二つの面の交わりが一種の純粋に到達する絵画的な唯一の手段であると私には思われる)。
しかし、この道路は(裸の五人のうちのリーダーのところの)その始点で、幅、厚み、等々が完全に終了し、少しずつ地形学的形態を失ったものになり、あの観念的な直線に近づく。この直線は子供=ヘッドライトのうちに無限に向かう穴を見出すのである。
このジュラ=パリ間の道路の絵画的素材は木になるだろう。この木は粉々になった火打ち石の感情的表現のように見える。
場合によったら、ある種の木を選ぶべきかどうか探求すること。(モミの木、あるいはニスを塗ったマホガニー)。
制作の細部。
複数次元=(複数平面)
画布の大きさ。
場合によったら蝶番のタブローをつくること。(折れるメートル単位、本……)移動状態での、つまり(一)平面での、(ニ)空間での蝶番の原理を利用すること。
蝶番の記述を見つけること。
場合によったら雌の(縊死体) に導入すべき。
序言
(一)水の落下
(ニ)照明用ガス
が与えられたとせよ、
そのときわれわれは、複数の法則によって互いに必然化し合っているらしいひと続きの[ある集合の]三面記事の瞬間的「停止」(あるいは寓意的外見)の条件を決定するだろう。一方で(無数の逸脱をすべて受容しうる)この(停止)と他方でこれら複数の法則によって正当化され同じくこれら法則を措く(諸々の可能性の)一つの選択とのあいだの一致の記号を分離するために。
瞬間的停止として=超特急の表現を入れること。
ある集合の超特急の停止[超特急のポーズ](=寓意的外見)のより良い[最良の]露出の条件を決めることになるだろう……等々。
何ものもない<ことによったら>。
はしがき
(一)水の落下
(ニ)照明用ガス
が与えられたとせよ(暗闇のなかで)、
仮にこうしよう、与えられて
晴闇のなかで、複数の法則にしたがって厳密に続いて起きるらしいいくつかの衝突の超特急の露出(=寓意的外見)(の条件)を決めることになるだろう。一方で(逸脱をすべて受容しうる)この超特急の露出と他方でこれら複数の法則によって正当化される諸々の可能性の選択との一致の記号を分離するために。
代数的比較
a aが露出であり
b bが可能であるすべてであるならば
a/bの関係はそっくりすべて、一つの数c[つまり]a/b=cなかにあるのではなく、aとbを分ける記号(a/b)のなかにある。aとbが「知られて」しまえばすぐにも、aとbは新しい単位になりそしてそれらの相対的な数的(あるいは持続の)価値を失うだろう。そこで残るのは、aとbを分離するような記号a/bである(一致の記号あるいはむしろ……の?……探すこと)。
右側と左側は、状況のなかに持続性の染料を後方に引きずるにまかせることで獲得される。垂直軸のそれぞれの側面の割り当てられた状況のシンメトリックなこうした細工は、(左と異なる右としては)外部の複数固定点上の実験の残滓としてしか実際には有効ではない。
そして逆に。つまりそれ自身ひとりで回転すると見なされた垂直軸、たとえば直角の母線は、次の二つの場合
つまり(一)A方向に回転する場合、(ニ)B方向に回転する場合で円をつねに決定するだろう。[図1]
それゆえ、停止状態の垂直軸の場合、母線Gに対して二つの逆方向を検討することがなおも可能であったならば、(何であれ) 生み出された図形はもはや軸の左あるいは右とは呼びえない。
軸と軸との区別が少なくなるにつれて、すなわちすべての軸がその垂直性に関してぼやけて消えるにつれて、正面と背面、表と裏は循環的意味作用を持つ。つまり右と左は正面と背面の四つの腕になるが、垂直線「にそって」少しずつ消える。
(広がり四[四次元の広がり?]としては)内部と外部はほぼ同一化されることを受け入れられるが、軸はもはや垂直ではなく、もはや「一」次元の外観しかもたない。
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