2009年2月27日金曜日

透視図法


透視図法
不完全で自由にされた主要な形
独身者装置または器具の主要な形は不完全である。つまり、主要な形とは長方形、円、正方形、平行六面体、対称的偏円、半球である。
すなわち、これらの形は測定されている(それらの現実的大きさの比率と独身者器具にこれらの形を割り当てるときのこれらの大きさの比率)。

<花嫁>では。主要な形は多かれ少なかれ大きいか小さくなるだろうが、それらの割り当てに従った測定値を持つことはもはやない。つまり、花嫁の球体は何かしらの光輪でつくられるだろう(球体を表わすために与えられる光輪は「虚構であり点描される」)。

図5 跳ね返り

同じくそしてそれ以上に、(雌の縊死体)では、いくつかの放物線、いくつかの双曲線(あるいはそれから派生する量塊)は測定された状況のあらゆる特徴を失うだろう。
それらの具体的表現はこれら自由になった主要な形のそれぞれの一例にすぎないだろう(表現的価値はないが、最良にも最悪にもなりうる一例である)。


デュ シャンは異常なまでに透視図法に対してこだわりを見せた。このこだわりは彼の四次元に対する興味に由来する。四次元を三次元として、視覚できるかたちでそ れを把握するための手段をそれに求めたのである。彼にとっての透視図法とは四次元のみならず、さらにすべてのモノを見るという行為の最も確かな概念装置で あった。

「レプリカ」を超えて(角田拓朗) 

2009年2月25日水曜日

やり方


やり方
入手すること(いくつかの部分を描写するための一般的形式を)、
たとえば、......で射撃痕を入手する
     ......を入手するために......を捉えるために......
轟音=跳ね返りの一部を(鏡のように)銀鍍金すること。
技術の視点から情報を得ること。つや消しした部分と(さび)を使って─
─すりガラスを透かして見える(さび)
─そしてまた、(さび)だけ
─拡大鏡を貼りつけること。コダックのレンズ。

白いカードのセット
カードの積み重ね─傾斜面で使うため。(排出斜面または轟音=跳ね返り)。実物大にして写真を撮ること。
                                    一九一五年一二月

この部分は「眼科医の証人」につながっている。

拡大鏡というところだが、中心にコダックのレンズを入れようとしたのでしょう。

「片眼で一時間」では、中央はレンズでした。

1914年のボックスの容器の箱はコダックの写真乾板の空箱が使われている。

2009年2月24日火曜日

独身者たちによって裸にされる花嫁


『独身者たちによって裸にされる花嫁』 のためのノート
(習作『処女から花嫁への移行』)
(花嫁)について。銀白と淡い焼き黄土によって得られるライトモティーフとしてのバラ色。
    少量の金色の黄土。
    赤色にはより多くの淡い焼き黄土が加わる。
    暗い視野は、黒色と焼きシュナ土と金色の黄土、そしてまたキプロスの焼きアンバーに
よって得られる(赤くするには少量の淡い焼き黄土)。
    左側は、緑がかったところはヴェローナの緑土と明るい淡い黄土と黒色によって得られる。
    中心では、晴い部分はキプロスアンバーを含む。
つくるべきもの、
<独身者たち>について。暗い部分を得るために、プルシアン・ブルーを用いる。プルシアン・ブルーは、<花嫁>とともに熱くなり、<花嫁>とは十分異なるだろう。
感覚で受け取るすべての色に対応する紙を、つまり一定の光(太陽光、人工光などなど) のなかのさまざまな差異ではなく、さまざまな色つき光源に対応する紙を探し出すこと[図4]

─回りを廻ること、
いくつかの色─(こうした種類の)光源─が同時に露出されることを前提にすれば、これら色つきのさまざまな光源の視覚的関連は、太陽光での赤い点と青い点の比較と同じ種類にはもはや属さない。
こうした露出には、ある種の非視覚性、ある種の冷静な考察、想像上の目にしか作用しないあの色素がある。(話している色のことだ)。現在分詞から過去分詞への移行に少し似ている。

色というのは、名前をつけられて区別される。たとえば、オレンジ色から赤色になるのは、目が決めるのではなくて、赤という言語が決めることになる。

「視覚性、ある種の冷静な考察、想像上の目にしか作用しないあの色素がある。」つまり「話している色」ということになる。

色は、進んでいると同時に遅れている名であり、画家によって先に名づけられ、また観者たちから後で名づけられ、現在分詞から過去分詞へ移行する。

2009年2月23日月曜日

ガラスの彩色のためには


(ガラスの彩色のためには)洗い落とせる色を。

<花嫁>、第二の習作(ミュンヘン)
バラ色は、淡い焼き黄土と白色[ドイツ語]
褐色の基盤は、純粋なシュナ土と少量の淡い焼き黄土[ドイツ語]と小量の白色
淡い黄色は、淡い黄土と白色[ドイツ語]
機械装置は、金色の黄土
橋は、焼きキプロスアンバー[黄色土からつくる絵の具で陰影をつけるのに用いる]
緑は、淡い黄土と黒色
   少量の線、線土[緑砂などを原料とする緑色顔料]

ガラスの彩色にあたっては、裏側から塗りながら表側の効果を確認する必要がある。鏡を見ながら確認したのだろうか?

洗い落とせる色を塗る。そして閉じ込める。デュシャンは、色を永遠に閉じ込めると言っていた。


2009年2月22日日曜日

純色とその補色の混合


次に検討すること、純色とその補色の混合
同じくプルシアン・ブルーとヴアーミリオン
美しい黒=プルシアン・ブルーと濃褐色
純色とその補色の混合
すりガラスとさまざまな金属さび
「跳ね返り」に用いるべき色として
黒鉛+乾煉用あまに油=銅色の色調

プルシアン・ブルーとヴアーミリオン
プルシアン・ブルーと濃褐色

格子の使用

「跳ね返り」で青を使うこと。ただし、建築家が使う青写真紙[?]の青だけを使うこと。
この紙の青に油を加えること。

「跳ね返り」はカタストロフィの現象。

ミルクに何かを落としたときのスプラッシュ。(ミルククラウン)これも毎回違う跳ね返りをする。あるエッジを超えた瞬間に大きな変化があるこの形態は、カタストロフィの理論で説明できる。

人間のクリエイティヴも、そういうことがしばしば起きている。何かアイディアが突然閃くみたいなことが起こる。

現代アートを近代アートから区別するものは、このスイッチが入ったような変化だと思う。つまりデュシャンのトイレを素晴らしいアートだと崇めるのはナンセンスで、それを美術館に持ち込んだ行為がアートなわけだ。

対論[ 心の中のカタストロフィ ]下條信輔×タナカノリユキ

2009年2月21日土曜日

「正確さ」を得るために


「正確さ」を得るために─画布を黒い染料(あるいはその他の黒いもの)に通してから色塗りすること、その後半乾きの厚いペイントに定規を使って鋭い先端で線を引けば、線は黒く強調されたように見える。

地 図の場合のように、建築家の図面あるいは図形的デッサンの淡彩画の場合のように、色についてのキヤプションの必要性。つまり用いられるそれぞれの色のマチ エール的意味作用の必要性-(たとえば、いくつかの金属について、木について、等々について、用いられる慣習的色を規定すること)。
機械の一部とはならない表面に色を塗るためにピクリン酸とヨードチンキ等々を─格子の使用─粉砕装置や液化装置を検討すること。

     ─プルシアン・ブルーとヴアーミリオン
美しい黒=プルシアン・ブルーと濃褐色
背景、あるいは作為的な稗貫は黒鉛で処理されるだろう(油性。ヘイントと黒鉛との好照による全体の強調を得るために)
 「正確さ」を得るために、終了した画布の上にさまざまな太さの針金を貼ること
すべての線(あるいは交わり)─面を、強調するための色(この針金はニスによって留めて置かれるだろう)
最終的画布の制作のために、乳白ガラスあるいは厚いゼラチンからステンシル[合羽板]を切り出すこと。
─その前に、影の範囲を限定し最後の層(ステンシルの層)が厚くならないようにしながら、できる
だけ正確に下地を準備すること。

鋼鉄
  未加工のもの
  加工したもの
ニッケル
  ニッケル鍍金したもの
  ニッケル地金       光沢の差

プラチナ
  かなりつやのないもの

  つやのないもの
  純銅
  黄銅
アルミニウム
  つやのないもの─くすんだもの

  鉄色系の青紫色のもの
鉄 [─?]建築用の
  ウルトラマリンの滝の、黒色のもの、漆色のもの、プルシアン・ブルーのもの、白色のもの、(明るい背景に対して)
鋼鉄 白色のもの、黄色のもの、黄土色のもの(暗い背景)
ニッケル
  白色のもの、コバルト系の色のもの、灰色のもの、線のもの(暗い背景に対して)
プラチナ
  白色のもの、コバルト系の色のもの、線のもの、黒色のもの(暗い背景)
アルミニウム
  白色のもの、プルシアン・ブルーのもの、黄色のもの、黄土色のもの

ガラス
  無色透明なグラッシ[溶き油で薄く溶いた絵の具]
雲母 黄色い透明なグラッシ

  黄銅、赤銅、粗銅、白銅、シュナ土[黄褐色の顔料]
試みとして、
ニッケル 白色のもの、レモン・イエロー=グリーン(影のためには黄色=青系の灰色に変質したもの
プラチナ
  白色のもの、光沢性の黄色のもの、黒色のもの
アルミニウム
  白色のもの、黒色のもの、光沢性の黄色のもの、プルシアン・ブルーのもの
鋼鉄 白色のもの、黒色のもの、プルシアン・ブルーのもの、光沢性の黄色のもの


創始着
べルグマン
グレス
ヴオトレル
M・ブロックマン
ゴスラン
木   さまざまな種類
    樅
    柏
    ニスを塗ったマホガニー
雲母  黄色い透明なもの
ガラス すりガラス
    透明ガラス
    色つきガラス(<特別な使用>)

プルシアンブルーは多少緑身がかかったやや暗い青で、大変色が強いためにプルシアンブルーはかなり黒っぽく見えます。
プルシアン[Prussian]ブルーという名前は昔のドイツの旧名プロシア[Prussia]に由来しています。これはドイツで発明されたためです。
プルシアンブルーはとても色が強いので、ほかの色と混ぜるとプルシアンブルーが勝ってしまいます。

「画布を黒い染料」というのはスクラッチの技法のことでしょう。

スクラッチ。スグラフィート。ズグラッフィト。ひっかき。グラッフィート。
何層かに重ねた絵の具の上から、先の尖ったものでひっかく事によって一番下の絵の具の色を見せる技法。
油絵やアクリルでも行われる技法だが、良く幼稚園や小学校でクレヨンを使ってやるので馴染みのある人も多いはず。

2009年2月20日金曜日

純粋な音色


「純粋な音色」に達するために用いるべき色の分類

黄色
 レモン・イエロー
 インディアン・イエロー
 薄いネーブルス・イエロー
 ネーブルス・イエロー
 オレンジ・イエロー
鉛丹(いくつかの金属部分を酸化から防ぐために)
 ヴァーミリオン
漆をさけること

アイボリー・ブラック
ろうそく(かさかさを避けるために一般的に黒土と混ぜること)

プルシアン・ブルー(黒と混ぜること、一般的には特殊な録のために黄色と混ぜること)
その馬鹿な大気傾向のゆえに混合物に青を入れないこと。
黄土色
 イエロー・オーカー
 レッド・オーカー    その他の黄土または土を探すこと

 薄緑(薄い色の金属のために)
エメラルド
濃褐色
 (試みること)

朱=ヴァーミリオン。色の名前。いろんな色があって、赤にもいろんな赤色がある。ヴァーミリオンの場合、朱は朱でも天然色ではなく、しかし天然のものより色鮮やかだといいます。

独身者の色だと思う。

2009年2月19日木曜日

黒と非常に淡い白


ほぼ最終的なデッサンの上に、黒と非常に淡い白によって、透視図法的光線の当たり具合(「黒と白」の中立の価値を持つ太陽より遠い光源の慣習)を措くこ と。この下塗り[?]は、それぞれの部分のマチュールの色つきヴァルール[濃淡の度合い]の下に消えなければならない。それゆえ、それぞれのマチエールを 色の成分(自1、黒1/2、ヴアーミリオン1/4等々)によって規定すること。いくつかのマチエール(たとえば、チョコレート、水[の落下][閉じ括弧な し]そして物理的に同質なものを持つマチエール(これに、これらを大気的なものとせず、これに可能なかぎり接近することになろう)は除く。これらのマチ エールを除いて、その他のマチエールはいずれも次のものを持つだろう。一、名(ite[鉱物をあらわす語尾]、in[指掌的または軽蔑的意味をあらわす語 尾]、あるいはその他の語尾?)、二、色の混合物の化学組成となるような化学組成(混合物)、三、視覚的外観((一)色付きそして(二)分子構成物─マチ エールごとに硬度、多孔度等々が異なるが、マチエールは図式的、慣習的方法によって指し示されるだろう(しかしながら、建築家の異なった平行線には言及し ないが)、四、複数の特性。

この第二の層に、もう一度黒と自で陰影をつけること(噴き出すこと)。

マチエールは絵の表面の質感の事で、画肌、テクスチュアとも言われています。

色合いや艶、塗り方、タッチによって変わり、描き手の個性が最もあらわれる部分です。

2009年2月18日水曜日

辞書について


大 きな物体の諸部分を至近距離で撮ったフィルム[普通は、映画、をいう]を使って、何ものかの写真であるようにはもはや思えないような写真記録を得ること。 これら半ば顕微鏡フィルムを使って、それぞれのフィルムが、文章をなす単語グループ一つあるいはばらばらの単語グループ一つの表現となるような辞書を一冊 つくること。そうすれば、このフィルムは新しい意味作用を持つ。あるいはむしろ選ばれた文章または単語がこのフィルムに集中することによってこのフィルム に一種の意味作用形式が与えられる。そしてフィルムと意味作用─単語によって表現される意味作用─との間のこうした関係は知らされたならばたちまち「衝撃 的なものとなり」、一種のエクリチュールに基礎として役立つのである。
このエクリチュールとはさらにもはやアルファベットまたは単語を持たずにすべての日常言語の「赤ちゃん言葉[ベビートーク]」からすでに解放されている記号(フィルム)を持つようなエクリチュールのことである。
─これらのフィルムを、辞書の場合と同じようにどれでも探し出せるような順序に分類する手段を見つけること。

フランス語、あるいは英語(あるいは他の言語)あるいは混合言語の固有名詞のリストを─姓だけでなく名をつけて(アルファベット順あるいはそうではなく)─つくること、等々。

絵画における写本彩飾師風の(筆写主義)について(<造形には造形で>)、反座主義)

一種の絵画的唯名論((抑制すること))
[裏に]一九一四年

絵画的有名論というとティエリー・ド・デューヴ『マルセル・デュシャン――絵画唯名論をめぐって』

鎌田博夫訳、法政大学出版局、2001

絵画と呼べないものを可能な絵画と名づけること――ド・デューヴが「絵画的唯名論」と呼ぶレディメイドの核心は、まさにこの矛盾のなかに潜んでいるわけである。

2009年2月17日火曜日

辞書

辞書
─それぞれの単語がいくつかの単語によって、必妻ならば一文全体によってフランス語(その他)へ翻訳されているような言語の[辞書]─
─構成要素まで既知の諸言語によって翻訳できるような言語の[辞書]、しかしここで言う既知の諸語とは、フランス語の(あるいはその他の)単語の翻訳を、あるいはフランス語のあるいはその他の文章の翻訳を、そして、その道も行なえないような既知の諸言語のことである。
─カードを用いてこの辞書をつくること
─これらのカードをどのように分類すべきか(アルファベット順、しかしどのようなアルファベットか)を見出すこと
アルファベット─あるいはむしろいくつかの基本的な記号、たとえば位置等々によって変化する点、線、円、等々(検討すべきところ)
─この言語の音ついて、この言語は話しうるか。否。
速記術との関係
「文法」=すなわち、(単語のような)基本的な記号を、次に記号グループ間をどのように関連づけるべきか、そして行為と存在の諸観念(動詞)、調整(副詞)はどうなるのか。
─等々?

辞書を一冊買うこと、そして線を引いて消すべき語を、線を引いて消すこと。印をつけること、見直しと訂正というしるしを。

辞書一冊に目を通すことそして「好ましくない」すべての語を削除すること。
場合によったらいくつかの語をつけ加えること。 - ときには削除した語を別な語に置き換えること。
ガラスの文字部分のためにこの辞書を使うこと。
辞書のために、見分けがつかない色と等価なものを探すこと。
「理論」
Aが行き当たりばったりに辞書を開いて見つけた一〇個の単語
Bが行き当たりばったりに辞書を開いて見つけた一〇個の単語
一〇個の単語のこれら「二セット」には、AとBがある意図をもって一〇個の単語を書いたときと同じような「個性」の差がある。
あるいは、重要ではないが、このような「個性」がAにおいてもBにおいても消えてしまいうる場合もあるかもしれない。それは最も良い場合であり、最も起こりにくい場合である。

「ダダ」は20世紀初頭に台頭した運動である。「その運動を称する「ダダ」は。ラルース辞書を無作為に繰って偶然出た語であるとか、色んな説があるが、要するに「無意味」を意味し、それゆえに彼らの否定精神を象徴する語である。

「好ましくない語」というのはどういう語なのだろうか?

グリーンボックスでは、「初源的語」を探している。

「初源的語」(それら自身によってだけそして単位によってだけ「分割できる」[初源的語])の探求。
ラルース辞典を取り出し、そして「抽象的」と言われるすべての語を、すなわち具体的指示対象をもたないようなすべての語を書き移すこと。

2009年2月16日月曜日

片方の目で見るべきもの

前々から片目で見る効果というのが、わからなかった。両目で見るのではなく片目でみることにより、立体化されるという効果があるということのようだ。

ヒトの視覚の特殊性というのは、横に並んだ二つの目が、それぞれ違った映像を感じて、それが脳ミソでかきまぜられて、立体を感じるようになっていることなのだった。
一方、カメラというのは、もともとが片目で見た映像なのである。ファインダーをのぞいていないほうの目を、カメラマンがあけたままであっても、写ってきた 写真は片目の映像には違いない。これを両目で見れば、「写真は立体を平面に置き換えたものである」という正論が見えてしまうばかりである。だから、写真 を、実物からうける視覚の印象と同じように見ようとするなら、片目で見なければいけないのである。
南伸坊「モンガイカンの美術館」

片方の目で見るべきもの
左目で見るべきもの
右目で見るべきもの
片方の耳で聞かなければならないもの
右耳で聞かなければならないもの
左耳で聞かなければならないもの

(轟音)のなかに置くべきもの─跳ね返り
─(左か右の)片方だけの目で見るべきものの一系列全体を基礎づけられるかもしれない片方だけの耳で聞く(聴く)べきものの一系列を見出せるかもしれない

黒い艶消し紙を裏に貼った曇りガラス(銀の効果)を使うこと
(眼鏡屋で)

「結び」(紡い結び、その他)についての本を買うこと。
移動できる鏡張りの部屋を手に入れること-そして鏡の効果を写真に撮ること......

写真は、壁(朝)
   浴室の鏡に映った私の姿
   傾斜面の上の鉛の針金のローラー三木(一種のレース)
   同じようなもの(額縁の釘)(スポンジ、一〇番街)の山積み/堆積

槌で打って型をつくられた鉛あるいは詰め物をされた鉛は密度がより低い。

図3 ポンプの吸引

練り歯磨きを使うこと
ガラス上で試すこと
同じくブリアンティーヌ[毛髪に光沢をつける香油]、コール
ド・クリーム、等々?
固形でないもの

石鹸水+濃いお茶=黄褐色に、淡緑色に調合すべきもの

銀河

あるいは[チョコレート](粉砕機)の脚のようにルイ十五世調のイメージ

雲はむしろ(ひげそり用)石鹸である。
忘れてはならないもの、デュムシェルのタブローつまり(薬局)=雪、夕暮れの色の濃い空、水平線の二つの光(バラ色と線色) の効果
造形的持続について討議するよう努めること

「銀河」の形態を得るのにデュシャンは歯磨きクリーム化プリアンティンかコールドクリームかひげそり用の石鹸のようなものを2枚のガラスの間に挟んで、左右に動かして、あの「銀河」の形態をえたのではないだろうか。

「銀河あるいは磨砕器の脚のようなルイ15世のイメージ。雲はむしろ”ヒゲ剃り用”石鹸である」(『不定法』にて

もっと考えれば、この試みを小さいガラス板の上で行い、これを写真的な処理に拡大して、その輪郭だけを「大ガラス」に転写したのではなかろうか

「動くこの書き込みを彫刻的に表示すること、そして瞬間写真を撮ること。最終の次元に引き延ばすこと。」 (東野)

2009年2月13日金曜日

二つの「同じような」物体

ベルグソンは、1907年の「創造的進化」の中で、「映画的錯覚」という名を与え、映画の偽りの運動を批判した。

ドゥルーズは、ベルグソンを超え、映画の中に「運動イメージ」を見ることにより、その持続性を評価した。

デュシャンも、映画の運動の中の持続性を評価している。


二つの「同じような」物体は、すなわち(貢が実物で他方が玩具である二つの折り畳み式デッキチェァのように)次元は異なるが、貢が他方の複製である物体 は、四次元の透視図法を構成するのに役立つかもしれない=三次元空間で互いの位置関係を決めてこれら二つの物体を配置するのではなく、ただただ次元の差異 がつくりだす錯視を考慮に入れるならば。

映画フィルムのスプールを巻くようにタブローあるいは彫刻をつくること。-それぞれの右転ごとに、大きなリールの上に、人必要ならば直径数メートル)、新しい「画面」を[つくること]。これは先行するものに続き、先行するものを後続するものに結びつけるものである。
─この持続性は映画の持続性とは共通点が何もないかもしれないしそれに似るかもしれないだろう。

一つさらにいくつかの精密楽器をつくること。これらの薫は、(名人芸主義、そして音色の物理理論の無益さを思い出させる音の物理的分割に反して)際だった音形を聞くことなしに記譜できるように、ある音から別の音への連続的移行を機械的に行なう。
[裏に]一九一三年

2009年2月12日木曜日

移し直し修正すべきところ


移し直し修正すべきところ

一。回転するガラスを使ったガラスケース。そのなかに壊れやすい物体を置くこと。─使いにくさ=窮屈さ─空間の縮小、三次元において実験できるという方法、ちょうどすなわち平面幾何学において操作が平面で行なわれるように。
─ 一つのテーブルの上に、壊れやすく多様だが角のない形をした物体をできるだけ多く設置すること。
ただし、これら物体は、多かれ少なかれ広いつまり多かれ少なかれ安定性を与える平らな土台の上に立てられる物体である。テーブルの上にできるだけ多くの物 体がそびえ立つようにしておくこと、それゆえそれらを倒壊させて壊してしまう危険を回避すること、しかしながらそれらが互いにはまり込むように(上に向 かって、という意味だが[原文は英語])それらを可能なかぎり密着させること
場合によっては、このように準備したテーブルをうまく写真に撮り、一枚をうまく焼付けてそしてネガは廃棄する。─

─箱のなかで同じ操作を。(一) 同じ物体を使って、今度はこれらを丸い部分の上に横たえて半ば不安定な状態で一種の底を作り、これら物体を互いに安定させること。(二)一枚の紙を上に置き、下の平面が残す孔を利用して上部に第二の層を作り直すこと、以下同様。
─赤と黄色の、靴墨

二。ガラスケース=食器棚を使って。その開閉は、金属球等々の上を移動するガラスによって行なわれるが。─ある空間の図形が、つまり幾何学の[図1]一平 面の図形に類似した図形が得られる。すなわち一空間のこうした図形を利用することができるだけでなく、仮説に対応する線分を紙上に措くことによって定理を 証明するのと同じやり方で[それを]証明することができる。       図1

(奇妙な反論/次のような比較、つまりたとえばテーブルまたはガラスとデッサンとの関係は、このガラスケースと......との関係[図2]と同じであるという比較に陥らぬこと)            図2
     レディーメイドとしてのウルワースビルディング
のための銘文を見つけること─
一九一六年一月

アンチ・オイディップスP.18参照のこと

アンリ・ミショーは、欲望の進行にほかならない生産の進行に合わせて形成された机《分裂症患者の机》のことを書いている。

この机はだんだんといろいろなものを付け加えられ積み重ねられて、それはますます机でないものになっていった...

同じイメージを感じる。


2009年2月8日日曜日

「芸術」でないような作品をつくることができようか。

ショーウィンドーの作品は2つあったはず。

ショーウィンドーの中に置かれた作品には触れることができない。

「芸術」でないような作品をつくることができようか。

ショーウインドーの問い、ゆえに
ショーウインドーの尋問を受けること、ゆえに
ショーウインドーの要請、ゆえに
ショーウインドー、つまり外部世界の存在の証し、ゆえに
ショーウインドーの尋問を受けるとき、自分自身の(有罪判決の宣告)もする。実際、選択は往き戻る。
ショー ウインドーの要求から、ショーウインドーに対する不可避的返答から、結果として選択の停止が出てくる。ショーウインドーの一つまたはいくつかの物品とガラ ス越しに交接することを隠そうと、背理法を使って躍起になることのないように。所有が完遂されるやいなや、ガラス[鏡?]を横切ることに、後悔することに 苦痛が生じる。よって証明された。
ヌイイー、一九一三年
芸術というのは、人の好みが反映されてしまう。

無関心でいられるような作品というのが作れるものであろうか。

2009年2月6日金曜日

3次元

普通の3次元の物体それぞれ、例えばインクつぼ、家、係留された気球は、4次元の多くの物体が3次元の環境に投影する透視図法そのものである。

私は、どういう4次元の物体の透視図法なのだろう。

3次元の透視図法であるのは影。私は4次元の影。

2009年2月5日木曜日

片方の目

片方の目で見るべきもの

片方の耳で聞かなければならないもの

一系列を見出せるかもしれない

片目で見るほうが立体画像になるということがあった。
片耳だとステレオになることはないと思うのだが。。。

右と左の系列の差が、立体やステレオ効果を作り出しているとしたなら、その差を感じ取ることが大事なのか?

2009年2月4日水曜日

辞書

辞書一冊に目を通すことそして「好ましくない」すべての語を削除すること


残った単語の辞書ですべてを表すことはできるのか?

2009年2月3日火曜日

光と影

光と影は3、2、1次元とおなじように4次元にも存在する

四次元での光と影はどのように見えるのだろうか?

四次元の視覚が必要だ。

2009年2月2日月曜日

ホワイトボックス

覚書のほうも大分整理できて来ました。

マルセルデュシャン/「大ガラス」「レディメイド」「遺作」覚書

このページに注釈を入れていく予定です。

見てくださいね。

2009年2月1日日曜日

四次元の視覚について

四次元の連続においては平面は常に1本の線のように見られる

次元が一つ下がるということですね。