引き離し義務兵役反対。 手足や心臓やその他の解剖学上の部分を《引き離すこと》。 各兵士はもはや制服を着ることができず、心臓は引き離された腕などに、電話で食糧供給をする。 そして食糧供給がなくなると、《引き離されたもの》はそれぞれ孤立する。 最後には、引き離されたものから引き離されたものへの哀惜の統制。 |
訳注
1-このメモは、このボックスのなかではかなり異色なものであろう。というのも、『グリーン・ボックス』のメモに多く見られるような一種の物語の構造がここには見出されるからである。 ⓐ-義務兵役に反対するために、 ⓑ-身体の各部分を引き離す。 ⓒ-制服を着られなくなる。 ⓓ-引き離され過ぎて、電話で食糧共給をしなければならない。 ⓔ-さらに引き離されて、連絡が途絶え、孤立する。 ⓕ-哀惜の統制が布かれる。物語とはいえ、これらのあいだが現実的な論理によって結ばれているのではなく、あるいは「風が吹けば、桶屋が…‥・」を想い出させかねないデュシャン独自の《皮肉な因果性》によって展開させられていることは明らかだろう。
2-だが、われわれはこのメモから何を読み取るべきなのだろうか?-たとえば《義務兵役反対》ということから、われわれは容易にデュシャン自身のエピソード、つまり一九〇五年、徴兵の法制度が変わる前に旧法の徴兵年期短縮の特権に浴するために、ルーアンの印刷工のところに住み込み、技芸工の資格を取って、徴兵年期を一年で済ませたという彼のエピソード(Pierre Cabanne ibid. p.26-27参照)を想い起すことができる。
1918年10月に兄レーモンは戦死したが、兄との間の連絡手段としての電話がつながらなくなった時の孤立感のようなものを感じる。
-また、《制服》は、不可避的に《大ガラス》の《独身者たち》の部分と関連しそのひとつのレフェランスとなることによって、独立した問題を提起するだろう。これに関しては、東野芳明『マルセル・デュシャン』の第四章「空っぽの制服たち」に詳細な論述がある。
製服を拒否する方法は、デュシャンが一九一四年のメモでユーモラスに書いているように「手足ヲ一本ズツ 心臓 ソノ他解剖学上ノ単位ヲバラバラニ”引キ離スコト””」である。そうすれば、「兵士ハモハヤ制服ヲ着ルコトガデキ」ないのだ。
東野芳明「マルセル・デュシャン」、(美術出版社,1977)p.151
制服は、社会的地位をあらわしている。
-さらには、A・シュヴアルツは、このメモを《独身者たち》の《去勢》という文脈で読解している(A.Scbwarz.《Qu'y a-t-il dans un mot?》, in《Opus International》49.ed.Georges Fall,1974,Paris,p.36)。
3-これ以上にわれわれが付け加え得ることは少ない。が、まず第一に、このメモにおいては、個人の身体corpsとあるひとつの軍団corps d’arméeとが重なり合ったイメージがつくられていることを指摘したい。物語のⓐⓑⓒは前者の、ⓓⓔⓕは後者のイメージが強く出ている。両者のレベルが意図的に混ぜ合わされているわけだが、いずれにせよ、《制服》に象徴されるような統一性や、また身体一の有機的な全体性や自己同一性に対する反対原理が語られていることは明らかだろう。そしてそれが《心臓が電話で食糧供給する》というような機械論的なイメージに結び付いていくところは、デュシャンにおける機械への思考の発生的な在り方を示しているようで興味深いものがある。だが、それでは最後の《哀惜の統制》Réglem entation des regrets とは何か?
-これについては、リオタールは《哀惜》の両義的な在り方、つまり一方では孤立したもの同士の関係(独身者のあいだの関係)として《離隔異化》dissimilationのカテゴリーに属するものでありながら、他方では、各《引き離されたもの》の完全な分散を遅らせ、それらをつなぎとめているものとして《離隔異化》とは反対のカテゴリーに属するものでもあるということを指摘している(《Les Transformateur Duchamp》ibid.p.69-71.)。
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