2008年5月24日土曜日

1914年のボックス 読解(9)

黄色の世界

ヴォリュームの上あるいは下にヴォリュームの橋、パトー・ムーシュ遊覧船が通るのを見るために



訳注

もとのメモには《黄色の世界》)という言葉の上下にほぼ三本の線が見られる。また《ヴォリュームの上あるいは下に》のなかで《あるいは下に》の部分は後から行間に書き込まれたもののように見える。

1-《黄色の世界》un monde en jauneという言葉は『グリーン・ボックス』のなかのメモに再び現われる(DDS66貢,LG10)。《彼女の独身者たちによって裸にされた花嫁、さえも/-農業機械-/-(黄色の世界)-/むしろテクストのなかで/(以下略)》。ただし、二行目と三、四行目とはそれぞれ赤の線で囲まれており、後者にはやはり赤で疑問符が書き込まれ、さらにはそのどちらも黒の鉛筆で斜線が引かれ消されたようになっている。

むしろ「光の世界」との連携を感じる。「光」「灯火」というか「アウワー燈」か?「アウワー燈」に灯された世界というと、「遺作」の方が近いかもしれない。

内部照明

四十五度に達する超太陽光線の代わりに。
内部光源の光の効果 (影と光)を規定すること、すなわちそれぞれの物質は化学組成にあっては燐光」(?)に恵まれており、そっくりと言うわけではないが、ネオン広告のように輝き、完全にではないが、その光はその色彩から独立しているわけではない。-要するに、全体の色のついた外観は、分子ごとに光源を持つ物質の外観となるだろう。
それぞれの部分の物質は光源であると同時に色彩である。言い換えれば、それぞれの部分のむきだしの色彩は、この部分のカラーの可視性の源である(他の部分への反射はない)。
探求すべきところ。各部分の形態(丸み、平板さ)にしたがって「分子の距離」?を配分する手段は。晴い部分(黒い背景)([この括弧ほない]あるいはむしろピクリソ酸性の黄色)から始めること。ユグノー型の頑固さ。タブローの全体は張り子材料でできているようにみえるのは、この表現全体が物理化学法則を少しゆるめることで可能な現実の(鋳型製の)デッサンとなるからである。
(GB)北山訳

「光」を「太陽」と捉えると、1914年のボックスの中の納められた唯一のデッサン「太陽の中に徒弟を」との関係が感じられる。

2-この『グリーン・ボックス』の方のメモを引用しつつ、(黄色の世界)という言葉について、A・シュヴアルツは、「秘教的な伝統においては、黄色という色は金と太陽とを象徴するものであり、さらに太陽は《天啓》を象徴している。そして、天の啓示ということになれば、一般的に金と黄色とは秘伝伝授者の状態を象徴する色である-極東の司祭たちはサフラン色の衣服をまとっている。あらゆる原型がそうであるように、象徴としての黄色もまた両義的である。硫黄は過失にそして悪魔に結びつけられる。そして、それはまた、結婚と姦通の、智恵と裏切りのご対立し合う対と雌雄同体の色でもある」(Arturo Scbwarz,《La Marié mise à nu chez Marcel Duchamp,même》trad.de làrglais en fransais par Anne-Marie Sauzeau-Bootti,ed.Georges Fall.1974,p.38)。と述べ、《黄色の世界》が《大ガラス》のいわば副題としてふさわしいものであると言う。しかし、その後に、彼ほデュシャンとの会話によれば、デュシャンはそうした色彩の《原型的で象徴的な価値》を全く知らなかったということを付け加えている。

3-『ホワイト・ボックス』のなかのメモに色彩について述べたものがあるが、たとえば《色の分類》の項目などでは(DDS112貢)、黄色が最初にきており、しかも《レモン色》から《オレンヂ色》まで他の色に比べれば数多い分類がなされている。それは、おそらくデュシャンの黄色に対する特別な関心を示すものとして受け取ることもできようが、その具体的な連関については不明である。

4-後半部も難しい。《遊覧船》は明らかにセーヌ河の観光船であり、ここには何らかの具体的な風景の反映があるようであるが、また最後の一行は《橋》という言葉からの連想から生まれたユーモアのある「蛇足」とも考えられるだろう。いずれにせよ、問題は《ヴォリューム》である。これを普通の絵画の用語として考えることは全体の文章の調子からいってかなり無理があるだろう。むしろデュシャンの四次元世界への関心を考慮して、三次元のヴォリュームが四次元世界の写像や断面であると,見なすことが適切かもしれない。実際,『ホワイト・ボックス』には、四次元連続体において《面は線のように見られ),《線は点のように見られる》,では《ヴォリュームがどのように見られるかを展開すること》というメモがある(DDS128-141貢参照)。その場合、四次元世界のものは,三次元のヴォリュームが連続した《橋》のようなものと想像されないだろうか(このメモでは《ヴォリュ一ム》は複数形になっている)。そして,その時,その《ヴォリュームの橋》の周囲にも(上にも下にも)同じようなヴォリュームの連続があるであろう。また,そうした観念のもとでは,三次元のヴォリュームである《遊覧船》の時間的な移動は何らかのモデルを与えるものとなり得たかもしれない。

四次元の連続においては、平面は常に一本の線のように見られる。
平面にはもはや透視図法的展開はない。
線は点として見られる。
量塊がどのように見られるのかを展開すること。(こうした全体の知覚を定義すること)四次元の連続において見られる三次元の物体は全体から知覚される
(この物体は、空間において見られる平面のように表と裏を持つのだろうか)
(WB)北山訳

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