2008年5月8日木曜日

1914年のボックス 読解(6)

……であるので。もし私が、自分がひどく苦しんでいると仮定するならば……



訳注

1-《Étant donné que…;si je suppose que je sois souffrant beaucoup…》-ジャン・スュケ『花嫁の鏡』(《Miroir de la Mariéé》flammarion,1974,Paris,p.191)によれば、ここに掲げた文章の次に《(énoneer comme un théorème mathématique)》-(数学の定理のように述べる)-という文章が付加されている未完のメモがあるらしい。

2-そこでスュケは、このメモについて次のように述べている。「たった-度だけ、ここで、《私》という言葉が花嫁のメモの中性的な性格をそこねてしまう。告白という圧力がかかっているのである。私はひどく苦しんでいる。私は重態なのだ。生々しい裂傷。そして《大ガラス》はこの傷の結晶化した痕跡であるだろう」(ibid.)。

3-さて、確かにデュシャンの膨大なメモのなかで《私》という言葉が現われるほとんど唯一のメモであるにしても、そこにデュシャン自身の現実的な苦悩を読み、それを《大ガラス》へとげ繋ていくスュケの解釈は多少強引であり、また性急過ぎるように思われる。それよりも、むしろ、スュケ自身が見出したこのメモのヴァリアントの示唆に従って、極めて心理的なまた主観的な内容を、数学におけるような客観的で中性的な叙述の形式によって表現することがここでの中心的な問題であると考えるべきではないだろうか。そして、実際、主観的・心理的な内容を強いて科学的・抽象的な形式で記述することは、デュシャンのメモや作品に広く共通するひとつの特徴であるだろう。

「数学におけるような客観的で中世的な叙述の形式によって表現する」ということを考えると、スピノザのエチカを思い起こす。「すべて普遍的法則によって因果的に連結され、規定される。」ことにより「永遠の法則のみが問題になり、時間的契機は問題でなくなる。」という体系は、デュシャンに通じるものを感じる。

スピノザの幾何学的方法は、この体系的思想そのものに内面的な関係をもつ。デカルト哲学では物体的実体と精神的実体との二種の実体が考えられている。しかし実際には、この両者を超越しこれを根底においてささえている第三の実体として神が考えられていたはずであるが、この思想はデカルトにおいては前面に現れていない。デカルト以後の偶因論においてこの契機が自覚的に展開され、最後にマルブランシュにいたって神はすべての存在を超越しこれを包むものとして、「精神の場所」として理解される。ここに、いっさいを包括する全体的統一的な形而上学的空間が考えられている。スピノザの体系もこの形而上学的空間との関連において理解される。スピノザでは、いっさいの特殊や個体は普遍的全体的な神においてあり、それの様態modiにほかならず、したがってそれ自身において独立に存在する存在でなく、すべて普遍的法則によって因果的に連結され、規定される。根底には空間的神秘主義が予想されている。ここで、主観的、人間中心的な目的論的な方法がすべて排除され、もっぱら客観的、機械論的な方法が要求される。時間的関係は空間的関係に還元され、原因causaは理由ratioにほかならぬことになる。いっさいのできごとは必然的帰結になる。永遠の法則のみが問題になり、時間的契機は問題でなくなる。必然性と永遠性とは同じものになる。真に合理的な認識は人間的感性的な時間的な見方をこえてもっぱら「永遠の相のもとに」見ることにある

下村寅太郎「スピノザとライプニッツ--「天才の世紀」の哲学と社会」、「世界の名著25スピノザ、ライプニッツ」解題、中央公論社、1969年

デュシャンは論理学について、全てはトートロジーと言っている。これは、トートロジーを否定するものではなく、「すべては最初の定理のなかにある」という点が重要であり、デュシャンは常に最初の定理を追い求めていたと思う。但し、「最初の定理」にだけ価値を求めるのではなく、世界は物の現れであり、知覚された現象にすぎないという主観主義でもあった。

マルセル・デュシャン――・・・・あなたはウィーンの論理学者たちの話を知っていますか?
カバンヌ――いいえ
マルセル・デュシャン――ウィーンの論理学者はある体系を練り上げたわけですが、それによれば、私が理解した限りでは、すべてトートロジー、つまり前提の反復なのです。数学では、きわめて単純な定理から複雑な定理へといくわけですが、すべては最初の定理のなかにあるのです。ですから、形而上学はトートロジー、宗教もトートロジー、すべてはトートロジーです。このブラックコーヒーを除いて。なぜなら、ここには感覚の支配がありますから。眼がブラックコーヒーを見ている。感覚器官のコントロールが働いています。これは真実です。ほかの残りは、いつもトートロジーです。

M.デュシャン、P.カバンヌ『デュシャンの世界』朝日出版社


4-このメモの冒頭の《Étant donné》という言い方は、遺作の『(1)水の落下(2)照明用ガス、が与えられたとすれば』Étant donné:1 lachuted’eau,2 le gaz d’ éclairage.にも使われているものであり、東野芳明氏が説明しているように(『マルセル・デュシャン』21-22貢)、数学などの記述に用いられることも多い。いずれにせよ、「……が与えられたとすれば(……が与えられているので)」というような既定条件を示すものとして〔1〕〔2〕〔3〕の註で述べたような(P→ )にあたる論理的な構造を喚起するものである。なお、《Étant donné que…;》と接続詞《que》のあとの文章が省略されているわけだが、この《que》を〔10〕の註3と同じように《queue》と読み替えて「男根があるので……」といったような卑俗な解釈をする可能性もないわけではない。

なお、この奇妙な題のÉtant Donnés-英訳、Given-という表現は、数学で使われるいいかたで、Étant donnés deux points
といえば、「二点が与えられたとせよという意味になり、デュシャンの数学的な関心がここにもあらわれている。p.21-22

デュシャンの数学への関心について、瀧口修造氏が、デュシャンの使う言葉が当時のポアンカレなどの数学者と関係がある、と示唆してくださったことがあった。p.56 

東野芳明『マルセル・デュシャン』

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