電気を横に 《芸術における》電気の唯一可能な利用。 |
訳注
1-《電気を横に》-原文は《L'éléctricitéen large》、A・シュヴアルツの英訳では《Electricity widthwise》である。言うまでもなく、「照明を横に置く」というような類いの意味ではない。とはいえ、また何か電気の具体的な利用法がここに告知されているわけでもない。
2-単純に考えてみても、芸術において電気の利用の仕方がひとつしか可能でないということはあるまい。デュシャン自身にしても『回転半球』などにおけるモーター、あるいは《遺作》の内部の照明や滝の仕掛け(「ビスケットの罐の側面にたくさん穴をあけ、これが滑る仕掛けになっている。内部の電球の光が穴を通して点滅し、滝の部分には綿の糸がつるしてあって、いかにも滝が落ちているように見える」-東野芳明『マルセル・デュシャン』60貢)などいろいろな利用の仕方をしている。
デュシャンは、芸術に科学との接点を常に求めていたと思う。四次元の取り込み等が最たるものであるが、根が同じものを感じていたのではないかと思う。この辺は、ドゥルーズの哲学-芸術-科学の関係について述べた論文等が参考になるかもしれない。
3-とすれば、明らかにこの《電気》は、ある種の観念のレベルで考えられているものと見なすことができる。そして、その場合は、たとえば『グリーン・ボックス』の多くのメモが語っているような《大ガラス》における《花嫁》と《独身者たち》の電気的な関係や《花嫁》の電気的な裸体化の運動(《開花》)、また〔6〕のメモに見られるような(《電話による食糧供給》)孤立化した要素間の電気による結びつきなど、関係や運動、欲望などのモデルとして《電気》が利用されていることに注目すべきであろう。また、そうした文脈の延長で、Cola alités(1959年,S 351,Ph 176,P161)に描かれた電線と電信柱のデッサンもこのメモの一レフェランスとして考えられるべきかもしれない。
欲望のモデルとしての《電気》の利用について述べられている。ここでもドゥルーズの欲望機械の連接を考えてみる必要がある。
元の記事 Marcel Duchamp, Bedridden Mountains, 1959
(大ガラス)と(遺作)をつなぐものは、「Cols alités」(注。『(彼女の独身者たちによって裸にされた花嫁、さえも)の一九五九年モデルのためのプロジェクト』という副題がある)という一九五九年のデッサンである。このデッサンは、(大ガラス)そのままだが、中央部分にたいへん微細で、ほとんど見えない線で山のスケッチが描き加えてある。そして右端、(チョコレート磨砕器)の右に、まるで(鉄)の刃のひとつがのびたかのように、デュシャンは電線と碍子のある電信柱を措いた。『グリーン・ボックス』のメモのひとつによれば、(花嫁)と(独身者)の間のコミュニケーションは電気的であるとされているが、この一九五九年のデッサンにおいて、この考えが電信柱と電線という直接で物質的な形で表現されているのだ (もっとも、この考えは、むしろ思考の、見ることの、あるいは欲望の電気的性質という比喩と思われるのだが)。したがって、ここには電気的性質の二つのイメージ、つまり、物質的エネルギーと精神的エネルギーがある。デッサンの題名によって、デュシャンは、山の起伏のある風景は帳(Cols)で構成されているが、しかし、その路は床に伏して、危焦(alités)といぅことを暗示する。つまり、この道はほとんど通行不可能なのであり、(独身者)の領域と(花嫁)の領域の間のコミュニケーションは容易でない、ということである。(遺作)にあっては、木々のある山の風景が、ほとんど手にとれるほどの現実味をもっているという事実にもかかわらず、コミュニケーションはもっと困難ですらある。いや、たぶん、その事実のゆえにこそ、困難なのだというべきか。なぜなら、われわれはここで、〈目だまし絵)の欺肺的な現実味を前にしているのだから。最後にこの題名が〈大ガラス)と(遺作)の観念を実現している法則を暗示している。つまり、反語的な因果関係である。Causalité(因果関係)→Cols
Alité(病床の峠)という言葉遊び。言葉の響きのわずかなふくらみを通して、われわれは、山のけわしい道から、偶然と必然が互いに会話をかわす世界へと赴くのである。知識とは、言語の病なのだ。オクタビオ・パス 「マルセル・デュシャン、あるいは純粋の城」 宮川淳訳
4-最後に、これも-種の言語遊戯だが、《L'éléctricité en large》の音のなかに《L'éléctricité en l'art》(芸術における電気)が隠されていることを指摘しておこう。
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