─これしかない。雌としては公衆小便所、そしてそれで生きる。─ |
訳注
1-《On n’a que:pour femelle la pissotiere et on en vit.》-この文章の中心になっている《pissotière》という言葉は、「公衆小便所」という意味の《vespasienne》の俗語である。パリなどの街路に置かれた男性用の公衆便所であり,その形については一九六一年にデュシャンによって書かれたグ.ワッシュの作品『ピエール・ド・マッソのためのアナグラム』(S359,Ph181)が参考になる。なお、題名の通り、この作品の「公衆小便所」にはアナグラムが書きこまれている。《De Ma/Pissotière/J’aperçois/Pierre de Massot》(わたしの/公衆小便所から/わたしは見つける/ピエール・ド・マッソを)。
元の記事 « Matta-Rébus » – « tout à l’égout sont dans la nature », de Duchamp, 1961.
2-シュヴァルツはこのメモを「花嫁の領域から独身者の領域へ」という分類のなかに入れているが、直接的にそうした文脈で読解を行うのはかなり無理だと言わざるを得ない。だが、明らかに「雌」という言葉は「大ガラス」の左上の「雌の縊死体」Pendu femelle へとつながっていくものであろうし、また、例の一九一七年の『泉』(S244,Ph120,P110)において顕在化する男性用小便器と「雌」あるいは性の問題との特徴的な連関(たとえば東野芳野『マルセル・デュシャン』74-77貢を参照)へのひとつの萌芽をここに読み取ることもできるだろう。
Muttというのは、「泉」にサインされた名前のことだが、
あるいは、リンデ風に、「おそらく偶然の一致」をたのしめば、Muttはフロイトがダ・ヴィンチを論じた際に援用したエジプト神話の神無とのことだと思ったとしても一向にさしつかえあるまい。そこではたしか、雌しかいない禿鷹がムト神であったが、男性用便器に雌の神の名という組み合わせから、どんな瞑想にふけろうと、それはあなたの自由である。 (東野)
3-しかし、われわれはまずこのメモを独立させて読まなければならない。そして、ここにデュシャン特有の言語遊戯が隠されていることを指摘しなければならないだろう。幾つかの可能性があるかもしれないが、その最も基本的な部分は、《On n'a que:》を《On a queue》と読み替えることにある。この場合、《queue》は「尻尾」が本義だが、俗語で「男性性器」という意味があり、全体で「雌のために男根をもつ、公衆小便所、そしてそれで生きる」というような別の意味が生まれてくる。〔ほかにも、《on en vit》の部分に《envie》(欲望)という言葉を見出すこともできよう〕
4-われわれの訳、つまり-次的な意味においては,いわば「雌=公衆小便所」という関係が成り立っていた。この水準においては、われわれはこのメモを、たとえば独身者の満たされない欲望の表明として受け取ることができるわけである。しかし、〔2〕で述べたようなこ次的な意味においては、むしろ「男根=公衆小便所」という関係が垣間見られている。そして、それは『ピエール・ド・マッソのためのアナグラム』に見られるような、公衆小便所と男根との形態的な類似によって裏打ちされてもいるのである。こうした両性具有的な在り方、それがある意味での「公衆小便所」そのものの在り方-つまり、男根が露出される場所でもあり、男根から放出される液体を受け取める場所でもあるということ-に呼応していることは言うまでもあるまい。
「泉」との関係が非常に強く感じられる。両性具有、独身者の欲望など、デュシャンらしい、エロティシズムが強く感じられるノートだ。
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