幸福な、または不幸な(好運な、または不運な)偶然のタブロオをつくる。 |
訳注
1-原文は、《Faire un tableau:de hasard heureux ou malheureux(veine ou déveine)》であり、《Faire un tableau》のあとにコロンが入っている(DDSではこのコロンが脱落している-このように細かな所ではDDSはかなりいい加減であり、注意を要する)。コロンの有無によって意味が大幅に変るわけでもないが、ニュアンスとしては《タブロオ》と《偶然》とのあいだに距離が生まれ、《偶然のタブロオ》という具体的なものをつくるというよりも、《タブロオをつくる》という行為に様々な偶然が介入するというように、多少の一般性を文章全体が滞びてくる。
「偶然のタブロウをつくる」よりタブロウをつくる行為に偶然が介入し、タブロウが幸運、不運となると考えたほうが確かにしっくりする。
潜在性が時-空間の中で現実化され、タブロウとなっても、真の評価は潜在性に対しするものであり、現実化されたタブロウの評価は、真の評価ではないだろう。
2-《‥…をつくる》というメモは、このボックスの〔16〕〔17〕、また『グリーン・ボックス』の《病気のタブロオまたは病気のレディ・メイドをつくる)(DDS49貫)などほかにも多くある。何気ない文章ではあるが、しかしこうしたメモに現われるデュシャンの発想がいわゆる伝統的な画家の発想とまったく隔絶していることは、あらためて指摘しておかなければならないだろう。《タブロオをつくる》とはいえ、それは絵画の対象にも、主題にも、方法にすらも拘束されてはいない。むしろ、これは、そこでは《タブロオ》という概念が根底から揺り動かされ、破壊されかねないような思考の顕われなのであり、そうしたある種のイデー観念が問題になっているのである。
3-すでに〔1〕〔2〕〔3〕のメモが明らかにしていたように、《偶然)を作品のなかに導入することにデュシャンは大きな関心をもっていた。『停止原基』に関連しつつ、デュシャンは次のように言う。「偶然というイデー、その当時多くの人々がそれについて考えていたのですが、わたしもまた例にもれずそれに強く刺激されました。その意図というのは、とりわけ手を忘れることにあったのです。つまり、結局はあなたの手にしても、それは偶然なのですから。論理的な現実性に対抗する手段として、純粋な偶然にわたしは興味を惹かれたのです」(Pierre Cabanne.《Entretiens avec Marcel Duchamp》.ibid,p.81)。このように、少くとも《偶然》はここでは、画家の《手》(スタイル、個性)によって支えられていた《タブロオ》という概念へのひとつのアンチ・テーゼとして考えられているのである。
4-《幸福な、または 不幸な偶然》に関しては、たとえばアユノス・アイレスにいたデュシャンがパリの結婚した妹シュザンヌに手紙で指示し、彼女がバルコニーに雨ざらしにして得られた幾何学の教科書のレディ・メイドが『マルセルの不幸なレディ・メイド』と呼ばれている(1919年,S260,Ph130,P120)。
それは幾何学の教科書で、彼女はそれをラ・コンダミヌ街の彼女のアパートのバルコニーに、紐でぶらさげておかなければならなかったのです。風が本をめくり、自分で問題を選んで、ページをむしり、引きちぎっていくはずでした。
マルセル・デュシャン,ピエール・カバンヌ (岩佐鉄男、小林康夫訳):「デュシャンは語る」、(筑摩書房,1999)123頁
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