帰結について。
たとえば、表面=蝶番の上の一立方体の切断部は正方形であろう。つまり、この正方形は無限の表面を移動せず、静止し、しかしながら表面の正方形の切断部として自己回転しなければならないだろう。
どのような意味をこの最後に文に与えることができるだろうか。
線=蝶番が自己回転するとき、この線のそれぞれの点は線の回転の過程でこの蝶番の上に(この点そのものに対して)直角に交わる線を引いた。類推するならば、正方形=表面=蝶番のそれぞれの線は、正方形に対して直角に交わる平面をもたらさねばならないだろう。
私に言わせれば、正方形=表面=蝶番の線は、点が線の要素を意味したように表面の要素を意味する。
一 球体(たとえば、半径が一〇センチの球体)から始めるとき、この球体つまり三次元の連続は、四次元の連続のなかの切断部である。ここでいう四次元の連続と はこの球体の無限増殖された虚像によって、すなわちこの球体が占有しうる三次元の連続的位置によってそしてあらゆる大きさによって構成される
ものである。つまり
(一) 三次元の幾何学空間における何かしらの物体は、その三つの次元のそれぞれの測定値によって位
置 づけられる。この測定値つまりその形の算術的(あるいは慢性的な)定式はこれら三つの次元の、それぞれのそれぞれに対する恒常的関係によって、そ の<現実>を規定する。三次元のこの<現実>は、この物体より大きいか、等しいかあるいは小さいかの像の無限反復の機会である。 しかし、数が無限のこれらの像のそれぞれは、物体=型[典型としての物体?]の三つの次元の恒常的関係に従う。
(二) これら虚像の無数 の総体(ア・プリオリに無限の[?]総体)は、四次元のある連続と三次元の連続(幾何学的無限)もまた構成する。実際、幾何学的無限は、確かに一連続なの だが、その三つの次元は、公理としての点から発しているゆえに、それらの無限定性において考察されるのである。─逆に、虚像の連続は三次元の幾何学的量塊 から発するのであり、連続を構成する虚像は、三次元の物体の転置である。
物理空間に非常に慣れ親しんだわれわれの感覚は、たとえば五次元の連続の概念化を容認しがたい。五次元の連続とは、三次元の物体が、四次元におけるその概念化によってすでに与えた超虚像総体であるようなものだからである。
(三) 反論について。四次元なるものは、第一次元、第二次元、第三次元が持つような触覚対応物あるいは感覚対応物を持たないからには、四次元という語の意味は何か。[図23]
図23
第五次元について、仮設的に次のように想像できる。四次元の連続においてそれぞれの虚像を規定する恒常的比率は恒常的であることを止めるが、それでもそのために比率であることは止めない。説明すること。
同様に、四次元の連続について。n次元の連続をn-1次元の連続の切断によって説明するポアソカレの説は誤っていない。反対にそれは確証される。しかも、この説に依拠することによってさえ、あの虚像連続に与えられる第四次元の呼称を正当化できるのである。
この虚像連続の切断について言えば、三次元の物体=型によって初めて切断できるかもしれないし、この物体=型は、その幾何学的無限のなかで考察されるものである。鏡のなかの反射(虚像)[。][図24]
三次元の連続の外観を与える二次元の透視図法から、四次元のあの連続の三次元の(あるいは場合によったら二次元の)透視図法を構成すること。
2009年3月10日火曜日
帰結について
2009年3月9日月曜日
エコー。潜在的な音
エコー。潜在的な音[虚音]
第四次元としての潜在性[虚性]とは、感覚的外観を持つ(現実)ではなく、ある量塊の潜在的表現[代理表象](鏡のなかのその反射に類似した表現)。
三次元の物体の虚像の無限増殖。これらの虚像は無限小であり、無限大である。
ABCDEF について。[それらは]空間の諸点であり、これら諸点に対して新しい物体Oに接する糸が(一方では、端で)結びつけられている。これらの糸は接点から出発 して、「カタツムリのように」螺旋状をなして巻きつき新しい重力点に向かう。それゆえ、物体Oは、(一)空間に接する。(二)その形はこの新しい点(一時 的には、重力点)によって規定される。この点の分離作用の特性は空間の境界に対してだけ作用する。すなわち、物体Oの極限の形は、二つの力(空間における 引力と広がりにおける分離)の結果である。
図形的にはこの分離の力は接触の糸によって表わされる。
新しい重力点の他の特性を探求すること。
た とえば、(それは)中心への物体O従属運動の等速性ではない。すなわち、この運動は往復運動でありうるし、物体Oは往復的自由を享受するのである。この自 由を測定する時間の間隔は、一定間隔の時間がつき従うが、この一定間隔の時間の間に物体Oがいくつかの条件つきの(これら条件を探究すること)中心によっ て規定されるのである。これらの時間間隔は二次元あるいは三次元の持続である(「ピストルを噛む男」における横からみた文字盤の特殊な展開を検討するこ と)。
わたしたちが現実だと思っている世界は実は映像(虚像)の世界であり、映像(虚像)の原像は『今、ここ』の積み重ねに過ぎないことが、映画フィルムが見事に表しているのであります。
静止画フィルムは空間つまり三次元世界であり、動画面が時空間つまり四次元世界であります。
四次元世界とは三次元世界の映像(虚像)に外ならない。
実体(実像)は三次元世界であり、四次元世界は映像(虚像)に過ぎない。 (新 田 論)
ドゥルーズの運動イメージ、時間イメージとの関係で考えた方がいいかもしれない。
四次元を虚像としてとらえて、三次元の「今、ここ」を生きると考えると、永劫回帰のようなイメージになる。
2009年3月8日日曜日
光と影
光と影は三、二、一次元と同じように四次元にも存在する。[図10]
三次元の透視図法は、変形しない最初の[?]正面図から出発する。
四 次元の透視図法は、出発点として、変形しない三次元の立方体あるいは媒体を持つであろうが、その三次元の立方体あるいは媒体においては三次元の物体は周辺 部可視性過多過小的[要するに可視外の]抱擁に包まれる。([それは]目で見られるのではなく、手で掴まれるかのようである)。
図10 立体 四次元の環境に
おけるある要素の切断部
─点が線を切断し面を切断しないのと同様に、無限の線あるいは表面の要素が量塊を切断しながら、四次元の「固体」を切断しないが、面または表面は四次元のこの固体を切断する。
─四次元のこの固体は三次元の複数の量塊によって限定されるだろう。
われわれの空間上への四次元の図形の射影は、三次元の影である(『ジュフレ四次元の幾何学』、一八六ページ、最後の三行を見よ)
一 空間による、四次元の図形の三次元の断面図について。一軒の家の各階の図面を描く建築家の方法に類似して、四次元の図形は三次元の断面図によって(各階ご とに)措けるだろう。これらそれぞれの階は、四次元によって互いに結びつけられるだろう。三次元の図形のすべての平面あるいは面を規定するように、四次元 の図形の三次元の状態すべてを構成すること。
─言い換えれば、四次元のある形は、三次元の無限の相のもとで知覚される(?)。これら無限の相とは、この図形を包み込む無数の空間(三次元の空間)をともなう四次元のこの図形の断面図である。
─ 言い換えれば、広がりの四方向にしたがって四次元の図形の回りを廻ることができる。知覚する人の位置の数は無限であるが、これらさまざまな位置を有限数に 減少させることはできる(たとえば、三次元の規則的図形の場合がそうである)。そのとき、それぞれの知覚はこれらさまざまな位置においては三次元の図形と なる。四次元の図形の三次元でのこれら知覚の総体は、四次元の図形の再構成の基礎になるかもしれない。
類推によれば、二次元の平らな存在 は長さを持つ。この長さはある軸の両側に対称的に配置されるが、この軸は平面内を想像的に引き伸ばしていけば、やがて二次元の個別のすべての軸に共通な極 に、三次元の重力均衡に対応する平らな均衡を規定する極にたどり着く。(この二次元の軸はコンパスであろうか、それとも二次元の連通管式水準器だろう か????)。四次元の広がりでは、垂直面と水平面はそれらの基礎的な(基礎の)意味を失う─(二次元の平らな存在が、それを支える平面が水平であるか垂 直であるか知らないのと同様である)。
従来の絵画が現実の三次元の事象を二次元の平面上に投影する作業です。
それに対して、「大ガラス」の具体像化は、「不可視の四次元」の事象を三次元のガラスに投影することです。彼によれば、それは、「計算と次元の考えに基づく数学的、科学的な透視画法」によってなされます。
ここでデュシャンは、例によって「四次元」の概念を「少しばかり」拡張しています。
彼は、<超喩>による意味の多重化を四次元の多重項とみなしています。<超喩>は、彼の考えでは、四次元の事象なのですね。
この点からみると、デュシャンの「透視画法」は、「不可視の四次元」の事象から時間軸を縮退させる、(一次元減じる)ことによって成立する「遅延」的手法だといえるでしょう。
この「透視画法」による「大ガラス」の具体像化は、「計算」に基づいて設計図を描く厳密さで下図がとられ、描線に代えて細い鉛線が使われるなど、 恣意的な感性の表現とみなされる要素を極力排除する徹底した事物化によってなされています。このようにして、具体像「大ガラス」は、ガラス板の間に封じ込 められ、文字通り閉じられた像として観衆の前に提出されます。
「大ガラス」の徹底した事物化による自閉性は、それをあらたな絵画的表現として見ようとする観衆の視線を「そらし」、ふたたび「遅延」自体の意味を 問う地平に連れ戻します。なにしろ、そこの描かれているのは四次元の事象の投影図ですから、三次元にいる私たちにはなんだかわけの分からない像ではあるの ですね。
「アメリカ現代美術は何を残したか」 河瀬 昇 より
2009年3月6日金曜日
四次元の目の構成
四次元の目の構成
次のような始まり─ある円周が、(視線がこの円周を含む平面のなかに入り込むまで、上下に移動する三次元の目から見れば)練達近法[透視図法]の法則によって慣習的に規定された多くの形を通過する。
次 のような結末──(三次元の目にとって一つの球体は、視点のようであれ、常に球体自体に等しい)。しかしある球体が、(四次元の視線が普通の三次元の目の 視線になるまで、四次元的に移動する四次元の知覚から見れば)視線を縮小することなく少しずつ量塊を減らす三次元の球体から単なる平面の円周に至るまで多 くの形を通過する。
[一九一四年一一月一一日の日付のガス料金請求書の裏に]
ここからも引用ですが、類推で感覚をつかまないといけません。
次元とは何なのだろうか?
そこで、四次元の構造物を、三次元の世界から眺めるとどういうことになるのか考えてみよう。一次元は、点だけの世界だ。二次元は、平面の世界で、縦軸と横軸の世界になる。
○四次元の球体は不思議な挙動を見せる
立体の世界は、三次元になる。X軸、Y軸、Z軸の座標軸で描ける立体だ。四次元になると、もうひとつの軸が加わる。W軸がもう一本ふえる。この軸は時間とともに不思議な変化をする。
三次元の世界から、この四次元の世界の球体を覗くといったいどういうふうに見えるのだろうか。はじめに、四次元の球を超球体としてみる。この超球体を三次元からみると、どの方向からみても同じ球に見える。
それでは、どこに違いがあるのだろうか?
このことを知るのに、まず超球体の超表面にに色をさまざまに塗り、超球体の中心をかえずに回転させる。すると、全体が、赤くなったり青くなったり時間とともに奇奇怪怪に変化する。
三次元の球ならば、幾ら時間がたっても赤く塗ったところは赤く、黄色に塗ったところは黄色に見える。それは、表面が平面だからだ。
しかし、超球体Iの表面は立体=球である。
超球体の断面は、全体として変体するように見えるが、三次元の立体に投影されているのは、超球体の一断面の部分だ。
だから、全体の超球体はけっして見ることができない。
このことを想像するのは難しいことだ。超球体Iは分割しても、また球である。
つまり、3次元からみるといくつに切っても同じもの=立体の球が表れることになる。
これを、理解するには、二次元と三次元の関係におきかえてみる。いま仮に、二次元の人間がいるとしよう。この二次元に住む人間が三次元の球を見た とすると、それはただの円としか見えない。三次元の人間がこの球に色をさまざまに塗り、これを回すと、二次元の人間は、手品を見せられているように感じる はずだ。平面しか見えない彼にとって、平面の円のなかの色が時間とともに変化するのはなぜかさっぱり分からない。それは、彼は三次元の断面を見ているので ある。それは、三次元の裂目のようなものだ。
三次元の球を次々に切ってみると二次元の人間には、やはり円に見える。ただ、次々に大きさが異なっていることは分かる。
これと同様に四次元の球を切ってみると、三次元からは大きさが変化することは観察される。大きさが変化するとは三次元の断面(裂目)からは、その一部を次々に見ていることだ。
しかし、その切断の部位は知ることは全くできない。
四次元で少しも不思議でないことが、三次元からは不思議に感じられる。四次元世界の断面が三次元であるということは、三次元の人間が映画を見るように、この立体の世界を見ているのだと、実際にはこのようにしか例えようがない。
2009年3月5日木曜日
四次元の透視図法
四次元の透視図法のために透明なガラスと鏡を使うこと
類推推理、つまり四次元の透視図法について。四次元のある物体の、三次元の透視図法的表示は 三次元の目にとって知覚可能であろうが、それは、ある大聖堂の平面透視図法が二次元の平らな目にとって(三次元の目ではなく)知覚可能であるのに似る=二 次元の目にとってのこうした知覚は(距離感覚へ
差し向けられた)移動知覚である=二次元の目は三次元の透視図法については触覚しかもたないであろ う。二次元の目はある点から他の点へ移動し、距離を測らなければならないだろ亨二次元の目は三次元の目のようには概観[全体像]を持つことはないだろう。 類推推理によって、四次元の透視図法に対
する三次元の目の移動知覚を。
「触覚による識別」あるいはある円周の回りを二次元の目が一平面内で移動することと、一視点に固定される二次元の同じ目がこの同じ円周を見ることとの差異。
同様に、「触覚による識別」、つまりある球体の回りを普通の目が三次元の移動をすることと、一視点に固定される同じ目がこの同じ球体を見ること線遠近法[透視図法]との差異。
同様に、四次元の領域には同じ差異が存在する。つまり、四次元には「触覚による識別」と四次元の物体の、三次元での透視図法的視覚的知覚がある。
三次元でのこの透視図法的視覚的知覚は四次元の目によってしか捉えられない。
三 次元の目ではこの透視図法的視覚的知覚をうまく捉えられないだろう(二次元の目では一円周の射影=線[?]しか見えないのと同じように)。三次元の触覚的 識別つまり旋回的移動によって、多くの四次元の物体の想像的再構成が場合によったら可能になろう。そしてこうした再構成が三次元の環境にこ
の透視図法を与えることができるだろう。
[一九一四年九月一四日の日付のついたガス料金請求書の裏に]
覗き穴と鏡によって三次元を二次元に対応させ、閉じこめることのできる仕掛けについて、透視図法が使うことができる。
伊藤セイコウ氏によると、透視図法を確立したブルネレスキがデュシャンを解く鍵になっているという。
『不実なる鏡』(人文書院)で著者テヴォーが示してくれた図にあるように「フィレンツェの大聖堂の中央扉口から眺められた洗礼堂を、可能なかぎりイ ルージョニスティックな仕方で、厳格に遠近法を適用しながら描き出した小さな板絵」である。女性が左手で持っているのは鏡で、右手に持っているのが板絵 だ。板には小さな穴が開いており、人 はそこから鏡を見る。すると、「板の表側の絵がその鏡に映し出される」のである。
また、十五世紀初頭にアントニオ・マネッティが書いた『ブルネッレスキ伝』(中央公論美術出版)に記録のある装置にある図はアレッサンドロ・パッロンキ教授によって想像復原されたもので、洗礼堂を左右逆に描き、鏡を通してバーチャルなリアリティを追求している。
「大ガラス」においては“向こうが透けて見える鏡”を使うことで、三次元を二次元に対応させ、閉じこめたのだという。
2009年3月4日水曜日
類似について
類似について、
透視図法的眺望と円との─消失点と中心との─類似
透視図法的眺望においては円周そのものは何に対応するのだろうか。[図9]
三次元の高みから見た平面において
直線でできる角が─鋭角であれ鈍角であれ─直角と最大一八〇度とに対する関係は、規則的連続的平面曲線が直線に対する関係と似る。つまり(規則的連続的平面曲線は、直線、円、楕円等々に対して定義される曲線である)
不規則的連続的曲線が直線に対する関係と似る、直角と最大一八〇度に対する角の関係が、直線に対する不規則連続曲線の関係と似るとき、この角をどのように表現すべきなのかあるいは想像すべきなのか(角、直線、曲線等々の概念の明確化に役立つために)
鏡=三次元への射影。ある立方体へのある物体の射影と三面鏡との比較。
鏡のこの実像は潜在的な三次元を持つ。鏡は平面だからである。
(不完全?)[裏に筆跡はM・D・ではない]
パリ、一九一三年五月二七日
レ・デュムシェル
パリ、ラ・クレ街四四番地
フランスの数学者ポアンカレによる4次元の定義
もし、物理的連続体Cを、すべてが互いに他の要素と識別し得るような有限個の要素からなる切断によって分割できるならば、われわれはCを1次元の 連続体と呼ぼう。もしCが、それ自身が連続体であるような切断でなければ分割されないのであれば、Cは多くの次元を有するという。もし、切断が1次元の連 続体ならば充分だというときには、Cは2次元を有するという。2次元の切断で充分ならばCは3次元を有するという。以下、同様である。
切断が3次元の連続体ならば、その物理的連続体は4次元を有する。そしてこれは5,6次元にも、そして、より高次元に対しても拡張可能である。ま た、裏を返せば、これはn次元の存在者はn+1次元の連続体を、あくまでn次元の空間内でしか認識し得ない、ということである。したがってn+1次元の連 続体がn次元において認識可能である場合、その連続体はn次元内での切片として-つまりn次元の連続体として-のみ、n次元の存在者に認識される。例えば 三次元の連続体が二次元の空間を通過する際、その連続体は二次元の存在者にとって、あくまで面の連続の-したがって連続体の形によっては、面の形状の連続 的な変化の-投影としてのみ捉えられる。したがって、四次元は不可視となる。
2009年3月3日火曜日
透視図法
透視図法。
検討すること、サント・ジュヌゲィエーゲ図書館のカタログ、次の項目全体を。
透視図法。
ニセロン(神父J.,Fr)光学の魔術師
[見本、上質紙─九〇ポンド─なめらかなものの上に]
三次元の線遠近法[透視図法]
平面図
Dは(視点)からの距離を示す
透視図法に転写したものについて、
AD、FD、GD、CDは鉛直線である
?検討すること、停止原器と赤いやつの透視図法のためにつくられた写真を。 図6
右と左→二次元平面
上と下→三次元空間
右と左=二次元平面
上と下=三次元空間
図7
重力と重力の中心は三次元空間内に水平と鉛直をつくる
二次元平面においては─消失点は重力の中心に対応するが、これらすべての平行線は、重力の中心にすべて向かう鉛直線に類似して消失点に集まる。
物 理的には─目は透視図法の器官である。その点において透視図法は、一つの色に似ている。触角は色として監視できないからだ。重力は、われわれにおいては普 通の五感の一つでは物理的に統御できない。われわれは常に重力体験を、胃に向かって内的に感じ取られる想像の自己検証あるいは現実の自己検証に還元してし まう。
疑似球体(中心の射影)[図8]
図8 図9
彼 が1913年末から1914年一杯まで司書として勤めたサント=ジュヌヴィエーヴ図書館のそれに関するすべての文献に目を通すこと、とのメモが残ってい る。この時期は『大ガラス』制作の準備期間に相当するから、デュシャンは大方このメモ通りに行動したと思われる。このことはジャン・クレールが指摘するよ うに、サント=ジュヌヴィエーヴ図書館に所蔵される透視図法に関する書籍の内容と『大ガラス』の比率との一致が物語っていよう。また『大ガラス』と透視図 法との関係は以下の論文に詳しい。Jean Clair, Marcel Duchamp et la tradition des perspecteurs, Marcel Duchamp, abécédaire, Musée National d'Art Moderne, Centre National d'Art et Culture Georges Pompidou, Paris, 1977;ジャン・クレール「デュシャンと遠近法理論家の伝統」横張誠訳、『エピステーメー』、11月号、1977年。
2009年3月2日月曜日
外観と出現
外観と出現
たとえばチョコレート製物体の 外観
出現
(一) この物体の外観とは、この物体についての普通の知覚を可能にするような日常的な感覚データの総体であろう(<心理学概論>を検討すること)。
(二) 物体の出現とは物体の鋳型である
すなわち、
(a)(チョコレート製の物体のような空間の物体にとっては)表面への出現があるが、この出現はこの物体の製造に役立つらしい一種の映像=鏡のようなも の、鋳型のようなものである。しかし形のこのような鋳型はそれ自体では物体ではなく、それはn次元のこの物体の主要な点がn-1次元に現われる映像であ る。三次元の外観は、その外観(の形)の鋳型である二次元の出現から生じる。
(b)鋳型のもう一つの部分として[─?]、天然の色での出現がある。
天然の色は色ではない(外部からくる何かしらの照明の、青、赤としての反射という意味で)。それらは、光学活性の色を生み出す光源である─すなわち天然 なチョコレート表面は、一種のチョコレート燐光からできることになるだろうし、この燐光がこのチョコレート製物体の鋳型としての出現を完全なものにする─
したがって、一方では天然の色、チョコレート色をした二次元の形は、鋳型でなければならないようであり、[他方]でチョコレート製の三次元の物体を生み出さねばならないようである。
天然の色が出現するとき、現実の色を規定するのだが、この現実の色は外部照明が自然な染色によって外観へ光をあてるために変化する。
天然の色は一般にマチエールに関係する。あらゆるチョコレートを規定するのに役立つ唯一の天然の色、チョコレート色が存在する。
説明すること
出現
否定
物理的外観(色、量、形) において考察される物体が与えられたとする。この物体の鋳型を定義すること(図形的に、つまり絵画的慣習によって)。
鋳 型が意味するのは、形と色から見れば、(写真の)ネガであり、塊から見れば、光の要素から構成される一つの面(基本的な平行関係によって物体の形を生み出 すもの) である。(強度の等しいこの光は、色=源(ただし、物体の外部の光源に従属する色ではない色)の差異によって表現される[閉じ括弧なし]。
た とえば、チョコレート製の物体の鋳型は、いくつかの色をもつ面のネガ的出現である(ここでいう色は、典型的なこうした物体[客体]・主体を含むような空間 内でのこの物体の位置によって慣習的に(透視図法的にたとえば三次元空間によって)規定される色のことである)が、この面の方は、
(一) この物体の色つきの形を、
(二) 光の諸要素、言い換えれば決定的役割を果たす一種自然な染色 としてのチョコレートの諸要素からなる塊を生み出す。ここで決定的役割を果たすとは、出現 (鋳型)から外観(チョコレート製の物体)への移行において、チョコレートの色とチョコレートの塊が異なる照明であらゆる視覚的変換を被るからである。
一。 物体は発光している。光源。物体の本体は光る分子から構成され、照明を当てられた諸物体のマチエールの源としてのマチエールになる(たとえば、光を発する チョコレートは、五感によって監視される物理的存在を持つチョコレート・不透明なマチエールレの原子的鋳型である─[閉じ括弧なし]
光を発する物体は一つの出現である。
デュシャンは、ルーアンにて蒸気機関で動くチョコレート粉砕器を見て〈独身者の機械〉の構想を得たとされています。
デュシャンは何の変哲もないお菓子の製造機械に独身者の欲望を発生させるという隠喩的な意味を与え、独身者の機械、「チョコレート粉砕器」とします。
2009年2月27日金曜日
透視図法
透視図法
不完全で自由にされた主要な形
独身者装置または器具の主要な形は不完全である。つまり、主要な形とは長方形、円、正方形、平行六面体、対称的偏円、半球である。
すなわち、これらの形は測定されている(それらの現実的大きさの比率と独身者器具にこれらの形を割り当てるときのこれらの大きさの比率)。
<花嫁>では。主要な形は多かれ少なかれ大きいか小さくなるだろうが、それらの割り当てに従った測定値を持つことはもはやない。つまり、花嫁の球体は何かしらの光輪でつくられるだろう(球体を表わすために与えられる光輪は「虚構であり点描される」)。
図5 跳ね返り
同じくそしてそれ以上に、(雌の縊死体)では、いくつかの放物線、いくつかの双曲線(あるいはそれから派生する量塊)は測定された状況のあらゆる特徴を失うだろう。
それらの具体的表現はこれら自由になった主要な形のそれぞれの一例にすぎないだろう(表現的価値はないが、最良にも最悪にもなりうる一例である)。
デュ シャンは異常なまでに透視図法に対してこだわりを見せた。このこだわりは彼の四次元に対する興味に由来する。四次元を三次元として、視覚できるかたちでそ れを把握するための手段をそれに求めたのである。彼にとっての透視図法とは四次元のみならず、さらにすべてのモノを見るという行為の最も確かな概念装置で あった。
「レプリカ」を超えて(角田拓朗)
2009年2月25日水曜日
やり方
やり方
入手すること(いくつかの部分を描写するための一般的形式を)、
たとえば、......で射撃痕を入手する
......を入手するために......を捉えるために......
轟音=跳ね返りの一部を(鏡のように)銀鍍金すること。
技術の視点から情報を得ること。つや消しした部分と(さび)を使って─
─すりガラスを透かして見える(さび)
─そしてまた、(さび)だけ
─拡大鏡を貼りつけること。コダックのレンズ。
白いカードのセット
カードの積み重ね─傾斜面で使うため。(排出斜面または轟音=跳ね返り)。実物大にして写真を撮ること。
一九一五年一二月
この部分は「眼科医の証人」につながっている。
拡大鏡というところだが、中心にコダックのレンズを入れようとしたのでしょう。
「片眼で一時間」では、中央はレンズでした。
2009年2月24日火曜日
独身者たちによって裸にされる花嫁
『独身者たちによって裸にされる花嫁』 のためのノート
(習作『処女から花嫁への移行』)
(花嫁)について。銀白と淡い焼き黄土によって得られるライトモティーフとしてのバラ色。
少量の金色の黄土。
赤色にはより多くの淡い焼き黄土が加わる。
暗い視野は、黒色と焼きシュナ土と金色の黄土、そしてまたキプロスの焼きアンバーに
よって得られる(赤くするには少量の淡い焼き黄土)。
左側は、緑がかったところはヴェローナの緑土と明るい淡い黄土と黒色によって得られる。
中心では、晴い部分はキプロスアンバーを含む。
つくるべきもの、
<独身者たち>について。暗い部分を得るために、プルシアン・ブルーを用いる。プルシアン・ブルーは、<花嫁>とともに熱くなり、<花嫁>とは十分異なるだろう。
感覚で受け取るすべての色に対応する紙を、つまり一定の光(太陽光、人工光などなど) のなかのさまざまな差異ではなく、さまざまな色つき光源に対応する紙を探し出すこと[図4]
─回りを廻ること、
いくつかの色─(こうした種類の)光源─が同時に露出されることを前提にすれば、これら色つきのさまざまな光源の視覚的関連は、太陽光での赤い点と青い点の比較と同じ種類にはもはや属さない。
こうした露出には、ある種の非視覚性、ある種の冷静な考察、想像上の目にしか作用しないあの色素がある。(話している色のことだ)。現在分詞から過去分詞への移行に少し似ている。
色というのは、名前をつけられて区別される。たとえば、オレンジ色から赤色になるのは、目が決めるのではなくて、赤という言語が決めることになる。
「視覚性、ある種の冷静な考察、想像上の目にしか作用しないあの色素がある。」つまり「話している色」ということになる。
色は、進んでいると同時に遅れている名であり、画家によって先に名づけられ、また観者たちから後で名づけられ、現在分詞から過去分詞へ移行する。
2009年2月23日月曜日
ガラスの彩色のためには
(ガラスの彩色のためには)洗い落とせる色を。
<花嫁>、第二の習作(ミュンヘン)
バラ色は、淡い焼き黄土と白色[ドイツ語]
褐色の基盤は、純粋なシュナ土と少量の淡い焼き黄土[ドイツ語]と小量の白色
淡い黄色は、淡い黄土と白色[ドイツ語]
機械装置は、金色の黄土
橋は、焼きキプロスアンバー[黄色土からつくる絵の具で陰影をつけるのに用いる]
緑は、淡い黄土と黒色
少量の線、線土[緑砂などを原料とする緑色顔料]
ガラスの彩色にあたっては、裏側から塗りながら表側の効果を確認する必要がある。鏡を見ながら確認したのだろうか?
洗い落とせる色を塗る。そして閉じ込める。デュシャンは、色を永遠に閉じ込めると言っていた。
2009年2月22日日曜日
純色とその補色の混合
次に検討すること、純色とその補色の混合
同じくプルシアン・ブルーとヴアーミリオン
美しい黒=プルシアン・ブルーと濃褐色
純色とその補色の混合
すりガラスとさまざまな金属さび
「跳ね返り」に用いるべき色として
黒鉛+乾煉用あまに油=銅色の色調
プルシアン・ブルーとヴアーミリオン
プルシアン・ブルーと濃褐色
格子の使用
「跳ね返り」で青を使うこと。ただし、建築家が使う青写真紙[?]の青だけを使うこと。
この紙の青に油を加えること。
「跳ね返り」はカタストロフィの現象。
ミルクに何かを落としたときのスプラッシュ。(ミルククラウン)これも毎回違う跳ね返りをする。あるエッジを超えた瞬間に大きな変化があるこの形態は、カタストロフィの理論で説明できる。
人間のクリエイティヴも、そういうことがしばしば起きている。何かアイディアが突然閃くみたいなことが起こる。
現代アートを近代アートから区別するものは、このスイッチが入ったような変化だと思う。つまりデュシャンのトイレを素晴らしいアートだと崇めるのはナンセンスで、それを美術館に持ち込んだ行為がアートなわけだ。
対論[ 心の中のカタストロフィ ]下條信輔×タナカノリユキ2009年2月21日土曜日
「正確さ」を得るために
「正確さ」を得るために─画布を黒い染料(あるいはその他の黒いもの)に通してから色塗りすること、その後半乾きの厚いペイントに定規を使って鋭い先端で線を引けば、線は黒く強調されたように見える。
地 図の場合のように、建築家の図面あるいは図形的デッサンの淡彩画の場合のように、色についてのキヤプションの必要性。つまり用いられるそれぞれの色のマチ エール的意味作用の必要性-(たとえば、いくつかの金属について、木について、等々について、用いられる慣習的色を規定すること)。
機械の一部とはならない表面に色を塗るためにピクリン酸とヨードチンキ等々を─格子の使用─粉砕装置や液化装置を検討すること。
─プルシアン・ブルーとヴアーミリオン
美しい黒=プルシアン・ブルーと濃褐色
背景、あるいは作為的な稗貫は黒鉛で処理されるだろう(油性。ヘイントと黒鉛との好照による全体の強調を得るために)
「正確さ」を得るために、終了した画布の上にさまざまな太さの針金を貼ること
すべての線(あるいは交わり)─面を、強調するための色(この針金はニスによって留めて置かれるだろう)
最終的画布の制作のために、乳白ガラスあるいは厚いゼラチンからステンシル[合羽板]を切り出すこと。
─その前に、影の範囲を限定し最後の層(ステンシルの層)が厚くならないようにしながら、できる
だけ正確に下地を準備すること。
鋼鉄
未加工のもの
加工したもの
ニッケル
ニッケル鍍金したもの
ニッケル地金 光沢の差
プラチナ
かなりつやのないもの
銅
つやのないもの
純銅
黄銅
アルミニウム
つやのないもの─くすんだもの
鉄
鉄色系の青紫色のもの
鉄 [─?]建築用の
ウルトラマリンの滝の、黒色のもの、漆色のもの、プルシアン・ブルーのもの、白色のもの、(明るい背景に対して)
鋼鉄 白色のもの、黄色のもの、黄土色のもの(暗い背景)
ニッケル
白色のもの、コバルト系の色のもの、灰色のもの、線のもの(暗い背景に対して)
プラチナ
白色のもの、コバルト系の色のもの、線のもの、黒色のもの(暗い背景)
アルミニウム
白色のもの、プルシアン・ブルーのもの、黄色のもの、黄土色のもの
木
ガラス
無色透明なグラッシ[溶き油で薄く溶いた絵の具]
雲母 黄色い透明なグラッシ
銅
黄銅、赤銅、粗銅、白銅、シュナ土[黄褐色の顔料]
試みとして、
ニッケル 白色のもの、レモン・イエロー=グリーン(影のためには黄色=青系の灰色に変質したもの
プラチナ
白色のもの、光沢性の黄色のもの、黒色のもの
アルミニウム
白色のもの、黒色のもの、光沢性の黄色のもの、プルシアン・ブルーのもの
鋼鉄 白色のもの、黒色のもの、プルシアン・ブルーのもの、光沢性の黄色のもの
鉄
創始着
べルグマン
グレス
ヴオトレル
M・ブロックマン
ゴスラン
木 さまざまな種類
樅
柏
ニスを塗ったマホガニー
雲母 黄色い透明なもの
ガラス すりガラス
透明ガラス
色つきガラス(<特別な使用>)
プルシアンブルーは多少緑身がかかったやや暗い青で、大変色が強いためにプルシアンブルーはかなり黒っぽく見えます。
プルシアン[Prussian]ブルーという名前は昔のドイツの旧名プロシア[Prussia]に由来しています。これはドイツで発明されたためです。
プルシアンブルーはとても色が強いので、ほかの色と混ぜるとプルシアンブルーが勝ってしまいます。
「画布を黒い染料」というのはスクラッチの技法のことでしょう。
スクラッチ。スグラフィート。ズグラッフィト。ひっかき。グラッフィート。
何層かに重ねた絵の具の上から、先の尖ったものでひっかく事によって一番下の絵の具の色を見せる技法。
油絵やアクリルでも行われる技法だが、良く幼稚園や小学校でクレヨンを使ってやるので馴染みのある人も多いはず。
2009年2月20日金曜日
純粋な音色
「純粋な音色」に達するために用いるべき色の分類
黄色
レモン・イエロー
インディアン・イエロー
薄いネーブルス・イエロー
ネーブルス・イエロー
オレンジ・イエロー
鉛丹(いくつかの金属部分を酸化から防ぐために)
ヴァーミリオン
漆をさけること
黒
アイボリー・ブラック
ろうそく(かさかさを避けるために一般的に黒土と混ぜること)
青
プルシアン・ブルー(黒と混ぜること、一般的には特殊な録のために黄色と混ぜること)
その馬鹿な大気傾向のゆえに混合物に青を入れないこと。
黄土色
イエロー・オーカー
レッド・オーカー その他の黄土または土を探すこと
緑
薄緑(薄い色の金属のために)
エメラルド
濃褐色
(試みること)
朱=ヴァーミリオン。色の名前。いろんな色があって、赤にもいろんな赤色がある。ヴァーミリオンの場合、朱は朱でも天然色ではなく、しかし天然のものより色鮮やかだといいます。
独身者の色だと思う。
2009年2月19日木曜日
黒と非常に淡い白
ほぼ最終的なデッサンの上に、黒と非常に淡い白によって、透視図法的光線の当たり具合(「黒と白」の中立の価値を持つ太陽より遠い光源の慣習)を措くこ と。この下塗り[?]は、それぞれの部分のマチュールの色つきヴァルール[濃淡の度合い]の下に消えなければならない。それゆえ、それぞれのマチエールを 色の成分(自1、黒1/2、ヴアーミリオン1/4等々)によって規定すること。いくつかのマチエール(たとえば、チョコレート、水[の落下][閉じ括弧な し]そして物理的に同質なものを持つマチエール(これに、これらを大気的なものとせず、これに可能なかぎり接近することになろう)は除く。これらのマチ エールを除いて、その他のマチエールはいずれも次のものを持つだろう。一、名(ite[鉱物をあらわす語尾]、in[指掌的または軽蔑的意味をあらわす語 尾]、あるいはその他の語尾?)、二、色の混合物の化学組成となるような化学組成(混合物)、三、視覚的外観((一)色付きそして(二)分子構成物─マチ エールごとに硬度、多孔度等々が異なるが、マチエールは図式的、慣習的方法によって指し示されるだろう(しかしながら、建築家の異なった平行線には言及し ないが)、四、複数の特性。
この第二の層に、もう一度黒と自で陰影をつけること(噴き出すこと)。
マチエールは絵の表面の質感の事で、画肌、テクスチュアとも言われています。
色合いや艶、塗り方、タッチによって変わり、描き手の個性が最もあらわれる部分です。
2009年2月18日水曜日
辞書について
大 きな物体の諸部分を至近距離で撮ったフィルム[普通は、映画、をいう]を使って、何ものかの写真であるようにはもはや思えないような写真記録を得ること。 これら半ば顕微鏡フィルムを使って、それぞれのフィルムが、文章をなす単語グループ一つあるいはばらばらの単語グループ一つの表現となるような辞書を一冊 つくること。そうすれば、このフィルムは新しい意味作用を持つ。あるいはむしろ選ばれた文章または単語がこのフィルムに集中することによってこのフィルム に一種の意味作用形式が与えられる。そしてフィルムと意味作用─単語によって表現される意味作用─との間のこうした関係は知らされたならばたちまち「衝撃 的なものとなり」、一種のエクリチュールに基礎として役立つのである。
このエクリチュールとはさらにもはやアルファベットまたは単語を持たずにすべての日常言語の「赤ちゃん言葉[ベビートーク]」からすでに解放されている記号(フィルム)を持つようなエクリチュールのことである。
─これらのフィルムを、辞書の場合と同じようにどれでも探し出せるような順序に分類する手段を見つけること。
フランス語、あるいは英語(あるいは他の言語)あるいは混合言語の固有名詞のリストを─姓だけでなく名をつけて(アルファベット順あるいはそうではなく)─つくること、等々。
絵画における写本彩飾師風の(筆写主義)について(<造形には造形で>)、反座主義)
一種の絵画的唯名論((抑制すること))
[裏に]一九一四年
絵画的有名論というとティエリー・ド・デューヴ『マルセル・デュシャン――絵画唯名論をめぐって』
鎌田博夫訳、法政大学出版局、2001
絵画と呼べないものを可能な絵画と名づけること――ド・デューヴが「絵画的唯名論」と呼ぶレディメイドの核心は、まさにこの矛盾のなかに潜んでいるわけである。2009年2月17日火曜日
辞書
辞書
─それぞれの単語がいくつかの単語によって、必妻ならば一文全体によってフランス語(その他)へ翻訳されているような言語の[辞書]─
─構成要素まで既知の諸言語によって翻訳できるような言語の[辞書]、しかしここで言う既知の諸語とは、フランス語の(あるいはその他の)単語の翻訳を、あるいはフランス語のあるいはその他の文章の翻訳を、そして、その道も行なえないような既知の諸言語のことである。
─カードを用いてこの辞書をつくること
─これらのカードをどのように分類すべきか(アルファベット順、しかしどのようなアルファベットか)を見出すこと
アルファベット─あるいはむしろいくつかの基本的な記号、たとえば位置等々によって変化する点、線、円、等々(検討すべきところ)
─この言語の音ついて、この言語は話しうるか。否。
速記術との関係
「文法」=すなわち、(単語のような)基本的な記号を、次に記号グループ間をどのように関連づけるべきか、そして行為と存在の諸観念(動詞)、調整(副詞)はどうなるのか。
─等々?
辞書を一冊買うこと、そして線を引いて消すべき語を、線を引いて消すこと。印をつけること、見直しと訂正というしるしを。
辞書一冊に目を通すことそして「好ましくない」すべての語を削除すること。
場合によったらいくつかの語をつけ加えること。 - ときには削除した語を別な語に置き換えること。
ガラスの文字部分のためにこの辞書を使うこと。
辞書のために、見分けがつかない色と等価なものを探すこと。
「理論」
Aが行き当たりばったりに辞書を開いて見つけた一〇個の単語
Bが行き当たりばったりに辞書を開いて見つけた一〇個の単語
一〇個の単語のこれら「二セット」には、AとBがある意図をもって一〇個の単語を書いたときと同じような「個性」の差がある。
あるいは、重要ではないが、このような「個性」がAにおいてもBにおいても消えてしまいうる場合もあるかもしれない。それは最も良い場合であり、最も起こりにくい場合である。
「ダダ」は20世紀初頭に台頭した運動である。「その運動を称する「ダダ」は。ラルース辞書を無作為に繰って偶然出た語であるとか、色んな説があるが、要するに「無意味」を意味し、それゆえに彼らの否定精神を象徴する語である。
「好ましくない語」というのはどういう語なのだろうか?
グリーンボックスでは、「初源的語」を探している。
「初源的語」(それら自身によってだけそして単位によってだけ「分割できる」[初源的語])の探求。
ラルース辞典を取り出し、そして「抽象的」と言われるすべての語を、すなわち具体的指示対象をもたないようなすべての語を書き移すこと。
2009年2月16日月曜日
片方の目で見るべきもの
ヒトの視覚の特殊性というのは、横に並んだ二つの目が、それぞれ違った映像を感じて、それが脳ミソでかきまぜられて、立体を感じるようになっていることなのだった。
一方、カメラというのは、もともとが片目で見た映像なのである。ファインダーをのぞいていないほうの目を、カメラマンがあけたままであっても、写ってきた 写真は片目の映像には違いない。これを両目で見れば、「写真は立体を平面に置き換えたものである」という正論が見えてしまうばかりである。だから、写真 を、実物からうける視覚の印象と同じように見ようとするなら、片目で見なければいけないのである。
南伸坊「モンガイカンの美術館」
片方の目で見るべきもの
左目で見るべきもの
右目で見るべきもの
片方の耳で聞かなければならないもの
右耳で聞かなければならないもの
左耳で聞かなければならないもの
(轟音)のなかに置くべきもの─跳ね返り
─(左か右の)片方だけの目で見るべきものの一系列全体を基礎づけられるかもしれない片方だけの耳で聞く(聴く)べきものの一系列を見出せるかもしれない
黒い艶消し紙を裏に貼った曇りガラス(銀の効果)を使うこと
(眼鏡屋で)
「結び」(紡い結び、その他)についての本を買うこと。
移動できる鏡張りの部屋を手に入れること-そして鏡の効果を写真に撮ること......
写真は、壁(朝)
浴室の鏡に映った私の姿
傾斜面の上の鉛の針金のローラー三木(一種のレース)
同じようなもの(額縁の釘)(スポンジ、一〇番街)の山積み/堆積
槌で打って型をつくられた鉛あるいは詰め物をされた鉛は密度がより低い。
図3 ポンプの吸引
練り歯磨きを使うこと
ガラス上で試すこと
同じくブリアンティーヌ[毛髪に光沢をつける香油]、コール
ド・クリーム、等々?
固形でないもの
石鹸水+濃いお茶=黄褐色に、淡緑色に調合すべきもの
銀河
あるいは[チョコレート](粉砕機)の脚のようにルイ十五世調のイメージ
雲はむしろ(ひげそり用)石鹸である。
忘れてはならないもの、デュムシェルのタブローつまり(薬局)=雪、夕暮れの色の濃い空、水平線の二つの光(バラ色と線色) の効果
造形的持続について討議するよう努めること
「銀河」の形態を得るのにデュシャンは歯磨きクリーム化プリアンティンかコールドクリームかひげそり用の石鹸のようなものを2枚のガラスの間に挟んで、左右に動かして、あの「銀河」の形態をえたのではないだろうか。
「銀河あるいは磨砕器の脚のようなルイ15世のイメージ。雲はむしろ”ヒゲ剃り用”石鹸である」(『不定法』にて
もっと考えれば、この試みを小さいガラス板の上で行い、これを写真的な処理に拡大して、その輪郭だけを「大ガラス」に転写したのではなかろうか
「動くこの書き込みを彫刻的に表示すること、そして瞬間写真を撮ること。最終の次元に引き延ばすこと。」 (東野)2009年2月13日金曜日
二つの「同じような」物体
ベルグソンは、1907年の「創造的進化」の中で、「映画的錯覚」という名を与え、映画の偽りの運動を批判した。
ドゥルーズは、ベルグソンを超え、映画の中に「運動イメージ」を見ることにより、その持続性を評価した。
デュシャンも、映画の運動の中の持続性を評価している。
二つの「同じような」物体は、すなわち(貢が実物で他方が玩具である二つの折り畳み式デッキチェァのように)次元は異なるが、貢が他方の複製である物体 は、四次元の透視図法を構成するのに役立つかもしれない=三次元空間で互いの位置関係を決めてこれら二つの物体を配置するのではなく、ただただ次元の差異 がつくりだす錯視を考慮に入れるならば。
映画フィルムのスプールを巻くようにタブローあるいは彫刻をつくること。-それぞれの右転ごとに、大きなリールの上に、人必要ならば直径数メートル)、新しい「画面」を[つくること]。これは先行するものに続き、先行するものを後続するものに結びつけるものである。
─この持続性は映画の持続性とは共通点が何もないかもしれないしそれに似るかもしれないだろう。
一つさらにいくつかの精密楽器をつくること。これらの薫は、(名人芸主義、そして音色の物理理論の無益さを思い出させる音の物理的分割に反して)際だった音形を聞くことなしに記譜できるように、ある音から別の音への連続的移行を機械的に行なう。
[裏に]一九一三年
2009年2月12日木曜日
移し直し修正すべきところ
移し直し修正すべきところ
一。回転するガラスを使ったガラスケース。そのなかに壊れやすい物体を置くこと。─使いにくさ=窮屈さ─空間の縮小、三次元において実験できるという方法、ちょうどすなわち平面幾何学において操作が平面で行なわれるように。
─ 一つのテーブルの上に、壊れやすく多様だが角のない形をした物体をできるだけ多く設置すること。
ただし、これら物体は、多かれ少なかれ広いつまり多かれ少なかれ安定性を与える平らな土台の上に立てられる物体である。テーブルの上にできるだけ多くの物 体がそびえ立つようにしておくこと、それゆえそれらを倒壊させて壊してしまう危険を回避すること、しかしながらそれらが互いにはまり込むように(上に向 かって、という意味だが[原文は英語])それらを可能なかぎり密着させること
場合によっては、このように準備したテーブルをうまく写真に撮り、一枚をうまく焼付けてそしてネガは廃棄する。─
─箱のなかで同じ操作を。(一) 同じ物体を使って、今度はこれらを丸い部分の上に横たえて半ば不安定な状態で一種の底を作り、これら物体を互いに安定させること。(二)一枚の紙を上に置き、下の平面が残す孔を利用して上部に第二の層を作り直すこと、以下同様。
─赤と黄色の、靴墨
二。ガラスケース=食器棚を使って。その開閉は、金属球等々の上を移動するガラスによって行なわれるが。─ある空間の図形が、つまり幾何学の[図1]一平 面の図形に類似した図形が得られる。すなわち一空間のこうした図形を利用することができるだけでなく、仮説に対応する線分を紙上に措くことによって定理を 証明するのと同じやり方で[それを]証明することができる。 図1
(奇妙な反論/次のような比較、つまりたとえばテーブルまたはガラスとデッサンとの関係は、このガラスケースと......との関係[図2]と同じであるという比較に陥らぬこと) 図2
レディーメイドとしてのウルワースビルディング
のための銘文を見つけること─
一九一六年一月
アンチ・オイディップスP.18参照のこと
アンリ・ミショーは、欲望の進行にほかならない生産の進行に合わせて形成された机《分裂症患者の机》のことを書いている。
この机はだんだんといろいろなものを付け加えられ積み重ねられて、それはますます机でないものになっていった...
同じイメージを感じる。
2009年2月8日日曜日
「芸術」でないような作品をつくることができようか。
ショーウィンドーの中に置かれた作品には触れることができない。
「芸術」でないような作品をつくることができようか。芸術というのは、人の好みが反映されてしまう。
ショーウインドーの問い、ゆえに
ショーウインドーの尋問を受けること、ゆえに
ショーウインドーの要請、ゆえに
ショーウインドー、つまり外部世界の存在の証し、ゆえに
ショーウインドーの尋問を受けるとき、自分自身の(有罪判決の宣告)もする。実際、選択は往き戻る。
ショー ウインドーの要求から、ショーウインドーに対する不可避的返答から、結果として選択の停止が出てくる。ショーウインドーの一つまたはいくつかの物品とガラ ス越しに交接することを隠そうと、背理法を使って躍起になることのないように。所有が完遂されるやいなや、ガラス[鏡?]を横切ることに、後悔することに 苦痛が生じる。よって証明された。
ヌイイー、一九一三年
無関心でいられるような作品というのが作れるものであろうか。
物 理現象の探求の手段である数学の中での多次元解釈として、このポアンカレ幾何学の概念が生まれた。ポアンカレ幾何学とは、切り口が点となるのが一次元 (線)で、切り口が線となるものを二次元(面)で、切り口が面となるものが三次元(立体)で、切り口が立体となるものが四次元(超立体)となり・・・解釈 は延々と続く。